![]() | 24:12 銀座駅 |
これまでのところで、自分に何か落ち度があっただろうか──と、真弓は考えた。 ひとまずは、無難にこなしてきたはずだ。 教えられた合い言葉は、拍子抜けするほど普通のものだった。 「お一人ですか?」 と問いかければいいというのだから。もし、その問いに、相手が「はい。一人です」と答えた場合には、「失礼しました。清風会の方たちの待ち合わせではないんですね」とでも適当に言えばいい。 「人を待っている」といった答えの場合も、失礼しましたと引き下がればいい。 お一人ですか、という問いに、 ──家でも、会社でも。 と答えた男がいたら、それが取り引き相手だ。 関根は、声を掛けた最初の男だった。あまり何人にも声を掛けたくはなかったから、その点では実にラッキーだった。 「はあ、いつも一人です。家でも、会社でも」 よほど慣れているらしい。関根の答えは、まったく自然だった。ただ、相手が真弓であったことが、彼を警戒させた。今までは、男性会員が関根と取り引きを行なっていたのだ。いきなり女の真弓が声を掛けて、警戒しないほうがおかしい。 関根は、しきりに周囲を気にしている。これがなにかの罠である可能性を疑っているからだろう。 わかりきっているはずの支払方法を確認したのも、真弓が〈本物〉であるかどうかを確かめたのだ。名前を答えさせたのも同様だろう。 テストされている……。 落ち着きなさい、と真弓は自分に言い聞かせる。 普通にしていればいい。 関根がテストするのは当然だ。そこでドギマギしてしまうようなことがあれば、余計に警戒されてしまう。 しかし、こういう状況の中で、普通にしていることほど難しいものはない。 実際のところは、いまにも心臓が破裂しそうになっているのだから。 「…………」 いきなり手首をつかまれ、真弓はびっくりして関根を見返した。 「白い手ですね」 関根は、そう言って、つかんだ手から真弓に顔を上げてきた。 「…………」 関根の手をゆっくりと振り払うようにして、自分の腕を取り返した。 「まもなく電車が参ります」と、アナウンスが流れる。「1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」 腕に、注射の痕があるかどうかを調べたのだ……。 真弓は、それに気づいた。 一瞬、セクハラまがいの妙なことをされるのかと思って身構えたが、関根の目的はそんな馬鹿げたことではなかった。 つまり、真弓が会の使いとして来ているのか、個人的な儲けを企んで薬品を手に入れようとしているのか──それを、調べたのだ。 「…………」 半ば無意識に、真弓は自分の肘のあたりをつかんでいた。 ノースリーブを着てきたことが、ある意味ではよかったのかもしれない、と真弓は思った。 腕を見せてくれ、と言われればそうするしかないが、袖のあるブラウスだったとしたらまくり上げなければならない。いくらなんでも、それは不自然だ。 小さく溜め息をついた。 こんな状態で、最後まで持つだろうかと不安になった。こういう緊張感は、いままで経験したことがない。初めて男とベッドに入ったときも極度に緊張したが、今の自分に比べたら緊張でもなんでもなかったと言えるかもしれない。 たまらない。こんなのは、やっぱりたまらない。 使いにやらされることになった自分が恨めしかった。こんな指示を出した前坂が恨めしかった。 「ええと、ちょっと訊いてもいいですか?」 ギクリとしながらも、真弓は努めてゆっくりと関根を見返した。 「失礼だけど、どうしてあなたみたいな人が……?」 「…………」 やっぱり、と真弓は奥歯を噛みしめた。 なにか答えなければと思うが、言葉が出てこない。そのとき、ホームに電車が入線してきて、それに助けられた。 入ってきた電車を見ながら、えい、とお腹に力を入れ、関根を振り返る。 「私ではだめですか?」 「いや、そういう意味じゃなくて、あなたのほうの事情もあるだろうと──いや、失礼」 「…………」 どうにかして、関根の警戒心を解いてもらわなければならない。ここは正直に言うしかないが、それで心を開いてくれるほど、甘くないだろう。 関根は、プロなのだ。 違法な薬品の受け渡しなのだから、彼が慎重になるのは当たり前のことではないか。 電車が真弓の前で停車した。 ドアが開き、構内アナウンスが流れはじめたが、関根には電車に乗り込む気配がなかった。 関根に視線を戻した。お願いだから、という気持ちだった。 「他の……他のメンバーは、みんな都合がつかなかったんです。もし、不安だということでしたら、電話してみますけど、代わりを寄越してもらえるかどうか──」 真弓の言葉を遮るようにして、関根が首を振った。 「いや、あなたでけっこうです。不安とかそんなことじゃないです」 「…………」 そうは言ったが、関根の表情からは、やはり困惑のようなものが感じられる。 この電車に乗れば、否応なく、真弓を取り引き場所へ連れて行かなければならない。その迷いがあるのだ。 ふう、と関根が息を吐き出した。そして、観念したように、目の前のドアから電車に乗り込んでいった。 「…………」 真弓は、ようやくホッとして、その関根のあとに続いた。 取引先が、どこなのか真弓は知らなかった。関根に続いて券売機で買った切符は渋谷まで。 ただ、それが単純に渋谷で下車する意味でないことは、真弓にもわかっていた。 |
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