![]() | 24:12 銀座駅 |
唾を呑み込んだ音がカオルの耳に届いたのではないかとそっと窺ったが、彼女は真っ直ぐ前を向いたまま、すました顔をしていた。 もっとも、男が唾を呑み込む音など、この女はいくらでも聞いていることだろう。それが商売なのだ。 かなりのベテランなんだろうな、と尾形は息を吸い込んだ。 それに比べると、こっちは……。 動悸がまた激しくなってきた。耳がズキンズキンと熱を持っている。 落ち着け、と自分に言い聞かせる。 とにかく、声を掛けられたときは、自分の耳を疑った。そして、次の瞬間、自分の眼も疑った。 「お一人ですか?」 と彼女は訊いたのだ。和光のショーウインドウを、ぼんやり眺めていたところへ、いきなり女性からそう言われたらなんて答えればいいんだろう。しかも、彼女は、米倉夫人にどことなく似ていたのだ。米倉夫人に会ったのは息子の父兄参観の時に一度だけだが、やたら色っぽいお母さんだとドギマギさせられた。 むろん、彼女が誘っているのだということぐらい尾形にだってわかったが、とっさになんと答えればいいのかわからない。ひどく間抜けな答えをしてしまった。 「……はあ、いっつも一人です。家でも、会社でも」 なんで、もっと素直な口がきけなかったんだろう。うなずくだけだってよかったじゃないか。 「…………」 そっと、またカオルを窺う。 ノースリーブの肩が丸く白い。ゾクッとさせるような、なめらかな肌だ。つい、手を伸ばして触れてみたくなる。 しかし、いきなり肩を抱くようなのもおかしい。だいたい、女性の肩を抱いたことなんて、一度もないのだ。カミサンの肩だって抱いたことがない。どうやって手を回していいのかもわからない。 じゃあ、手を握るぐらいだったら……。 恐る恐るカオルに手を伸ばした。手を握ろうとしていたのに、つかんだのは手首だった。 「…………」 カオルがつかまれた手首と尾形を見比べるようにした。 「……白い手ですね」 また、馬鹿なことを言ってしまった。 カオルは、ゆっくりと尾形の手を振り払い、そのむき出しの腕を抱えるようにして、ふたたび視線を前へ戻した。 「まもなく電車が参ります」 アナウンスにギクリとして、尾形は目を上げた。 「1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」 思わず、溜め息が出た。 まずいなあ……。 自分が情けなくなってくる。 たぶん、カオルは腹の中で笑っていることだろう。このスケベオヤジ……などと毒づいているに違いない。 密室に入るまでは手を出しちゃいけないってルールでもあるんだろうか。だからって、あんなに冷たく振り払うことはないだろうに。 だって、彼女自身、シナモノを確かめてから、と言ったのだ。手触りだって大切ですよ。シナモノの手触り。 カオルの手首の感触が掌に残っている。細くて、柔らかな手だった。 「…………」 ふと、自分の手が汗をかいていることに気がついた。 そうか──。 だから、振り払われてしまったわけだ。 そりゃあ、汗をかいた手で触られたくはないよな。カミサンなんて、汗かいてなくてもちょっと触れただけで厭な顔するもんなあ。むかつくよなあ。 また、カオルを窺う。 こちらへ顔を向けてきそうな気配がして、慌ててそっぽを向いた。 こんな女性が、どうして街で客引きなんてやってるんだろう。それも銀座のど真ん中で。ああいうのは新大久保とか、鶯谷とか、そういうとこに立っているのかと思ってた。 銀座だと、やっぱ、ちょっと高いってことなんだろうか? 不意に興味が湧いた。 「ええと……ちょっと訊いてもいいですか?」 カオルがこちらを向く。 「失礼だけど、どうしてあなたみたいな人が……?」 「…………」 カオルは、口を開きかけ、そのまま視線を線路の向こうへ投げた。ちょうど、電車が入ってきたところだった。 騒音の中で、彼女は尾形に向き直った。 「私ではだめですか?」 尾形は、慌てて首を振った。 「いや、そういう意味じゃなくて……あなたのほうの事情もあるだろうと……いや、失礼」 「…………」 カオルが、ふう、と溜め息をつくのが見えた。 一番訊いてはいけないことだったのかもしれない。そりゃそうだ。そんなこと常識だろう。 恋人になってもらうというわけじゃない。ただ、一晩だけ、1時間か2時間か──その程度のことなのだ。事情なんて訊くのは一番厭がられるにきまってる。 最後尾車両が、尾形たちの前で停まった。ドアが開き、アナウンスが流れはじめる。 「他の──」 と、カオルが言って、尾形は彼女のほうを向いた。 電車に乗るかどうか、迷っているような表情だった。 「他のメンバーは、みんな都合がつかなかったんです。もし、不安だということでしたら、電話してみますけど、代わりを寄越してもらえるかどうか──」 ちがうんです、と尾形は首を振った。 「いや、あなたでけっこうです。不安とかそんなことじゃないです」 自分のみっともなさが厭になった。 そうか、彼女は個人営業ではなく、どこかの組織に所属しているわけなのだ。客が気に入らないという場合には、チェンジもOKなのだろう。 深呼吸をしながら、尾形は目の前の電車に乗り込んだ。後ろからカオルがついてくる。それで、ちょっとホッとした。 そのとき、ふと思った。 組織? この女の後ろには、組織が……? |
![]() | カオル |