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 24:12 銀座駅
 米良ヒロコ
(めら ひろこ)


    「言ってしまってから、独り言だって気がついて、自分で恥ずかしくなったりするんですよ」
 言うと、内海は、そうそう、とうなずいた。

「あれは、なんでしょうな……? 気がつくときまりは悪いが、どうせ部屋の中は誰もいないし、だからそのままずっとブツブツ言ってたりする」
「ほんとに、そう」

 もう一度うなずいて、なんとなく嬉しくなる。年寄り同士だから、こんな共通点でも安堵してしまうのだろう。

「たぶん、考え事も、自分の耳に言い聞かせてやったほうがよくわかるような……ということは、ボケの始まりでしょうかね」
 あはは、とヒロコは笑った。
「内海さんはボケてはいらっしゃらないじゃありませんか」
 あはあは、と内海も嬉しそうに笑った。

 いつ頃からだろう、とヒロコは思った。

 あらためて考えてみるとよくわからない。
 いったい、いつ頃から独り言を言うようになったのか。おそらく、一人で暮らしはじめてからのことだろう。自分一人の部屋では、なんの気兼ねもない。だから、平気で独り言を言うようになったのだろう。

「…………」

 だと思うけれど、自信はなかった。
 もしかしたら、その前からだったのかもしれない。そう言えば、とヒロコは思い出した。
 一時期だけ、定男の家に居候をしたとき、友子に指摘されたことがあった。
「お義母さんの実況中継って、聞いてて面白いわ」
「……なに? 実況?」
「ひとりごと」
 びっくりして嫁を見返した。
「これを刻んじゃって、ああその前に、火を小さくしとかなきゃ──とか、自分で解説してるんですもの」
 言いながら、友子が笑う。
「なに言ってるの。あたしは独り言なんて言いませんよ」
 むっとして、言い返した。

 友子に指摘されたのは、そのときだけだ。
 でも、友子は、ヒロコが機嫌を悪くしたから、言わなくなっただけのことなのかもしれない。
 もしかしたら、もうずっと前から、独り言を言っていたのかもしれない……。

「なぜ、独り言になるんでしょうな」
 それこそ独り言のように、内海が言った。
 クスクスとヒロコが笑い、内海も照れたように頭をかいた。

「まもなく電車が参ります」
 と、構内アナウンスが聞こえてきて、ヒロコと内海は同時に顔を上げた。
「1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」

 頭上の「1」と書かれた掲示板に目をやって、ヒロコは、あら、とホームを見渡した。

「こっちじゃなかった。浅草行は向こうですって」
「え……」
 内海も、つられたように自分の周りを見回した。
「向こう?」
「ほら、こっちは1番線。あっちが2番線。浅草行は2番線って言ったわ」
「おや、そうでしたか」

 ヒロコは、ゆっくりした内海の足にあわせて、ホームを横断した。見回したが、近くにはベンチがなかった。
 イスのあるところまで行って、内海を座らせてあげるべきだったと、今頃になって気がついた。でも、電車が来てしまうのでは、休むことにならない。

「教えてもらわなかったら」と内海は、溜め息と一緒に言った。「こっちの電車に乗って、渋谷に着くまでわからなかったかもしれないな」
「ほんとに」
 うなずきながら、ヒロコは腰のあたりをさすっている内海を見つめた。

 歳にしては若い内海だが、それでももうすぐ90歳なのだ。内海の住んでいるアパートで聞いた話だと、警官にアパートまで送り届けてもらったりしたこともあるらしい。
 散歩に出て、迷ったか動けなくなったか……そういうことも、度々だと聞いた。

 銀座まで遠出したのは、ちょっと無理だったかもしれない、とヒロコは思った。もっと早めに帰ろうと思っていたら、こんな時間になってしまっていた。プロポーズでびっくりさせられて、時間を見るのを忘れてしまっていたこともある。

「次が最終ですって。間に合ってよかったわ」
「おや、もう……そんな時間でしたか」
 やれやれ、と言うように内海が首を振った。

 まあ、人のことを言えたものでもない……と、ヒロコは思った。
 あたしだって、放送を聞くまで気がつかなかったのだ。

 電車が近づいてきているのだろう、ゴーゴーという音が次第に高くなってくる。こころなし、足下のホームが振動しているのも感じる。

 なにか内海が言ったような気がして、そちらへ目を向けた。
「…………」
 だが、内海は線路のほうを向いたまま、腰をさすり続けていた。
 話しかけられたとしても、地下鉄の中ではよく聞こえない。声を張り上げて話をしていたら、すぐに疲れてしまう。
 これもまた、困ったことだ。

 騒音が激しくなって、振り返ると、1番線の電車が入ってきていた。
 その電車が停まるのを、なんとなく眺める。
 そんなに人は乗っていない。この時間なら、そうだろう。

 座れる。

 と、ヒロコにはそれが嬉しかった。


 
     内海 

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