![]() | 24:12 銀座駅 |
「言ってしまってから、独り言だって気がついて、自分で恥ずかしくなったりするんですよ」 そう言うヒロコに、内海は嬉しくなって大きくうなずいた。 「そうそう、あれは、なんでしょうな……? 気がつくときまりは悪いが、どうせ部屋の中は誰もいないし、だからそのままずっとブツブツ言ってたりする」 「ほんとに、そう」 楽しそうにヒロコが笑った。 ある意味では傷の舐め合いに似たことではあるが、それも大いにけっこう。 いやはや、と内海はやや照れた。照れついでに続ける。 「たぶん、考え事も、自分の耳に言い聞かせてやったほうがよくわかるような……ということは、ボケの始まりでしょうかね」 言うと、ヒロコは声を上げて笑い出した。 「内海さんはボケてはいらっしゃらないじゃありませんか」 ひとしきり顔を見つめ合いながら笑う。 幸せというのは、案外簡単なところにあるものだ。 若いころは、幸せを求めて必死に働き続けた。しかし、必死になっても必死になっても、幸せを感じるときはなかなか得られなかった。 そう、と内海は自分自身にうなずく。 幸せは、必死に追い求めるものではないのだ。そこら中に幸せの種がある。若いうちはそれが見えなかった。戦争へ行き、その後の混乱した世の中を懸命に生きながらえてきた。少々生き過ぎてしまったとも思うが、いつも必死だった。 そこら中にばらまかれている幸せの種を、ニコニコしながら見守っていれば、その種が芽吹いてくれるのだ。こんな歳になるまで、気がつかなかった。 それを気づかせてくれたのが、ヒロコなのだ。 ヒロコと話をしていて、不意に気づく。ああ、俺は今、とても幸せだ、と。そんなことにびっくりする。この人と話をしているだけのことなのだ。それも、なんていうことのない、他愛のない世間話のようなもの。独り言を言うか言わないか、そんなどっちでもいい話なのに。 不思議だと思う。 独り言。 巡ってまた考えがそこへ戻ってきた。 部屋では、いつも独り言だ……。 「なぜ、独り言になるんでしょうな」 つい、そう言った。 うふうふ、とヒロコがまた笑い、内海も笑いながら頭に手をやった。 「まもなく電車が参ります」 スピーカーが言って、驚いて内海は宙を見上げた。 「1番線と2番線に電車が参ります。黄色い線の内側に下がってお待ち下さい。1番線は赤坂見附、表参道方面、渋谷行。2番線は、神田、上野方面、浅草行の最終電車です。浅草行は、最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意下さい。1番線と2番線に電車が参ります」 「あら」と、ヒロコが声を上げる。「こっちじゃなかった。浅草行は向こうですって」 「え……」 何を言われたのかがよくわからず、内海はあたりに目をやりながら訊き返した。 「向こう?」 「ほら、こっちは1番線。あっちが2番線。浅草行は2番線って言ったわ」 「おや……そうでしたか」 つまり、立っている位置が電車の到着する場所ではなかったということか……。 ヒロコに促されるようにして、内海はホームを渡り反対側へ歩いた。いささか足下がふらついているが、ヒロコに気取られないようにするのが苦労だった。 場所を移動して、立ち止まってから、内海は、ふう、と息をついた。 「教えてもらわなかったら、こっちの電車に乗って、渋谷に着くまでわからなかったかもしれないな」 「ほんとに」 ヒロコに教えられて、と言ったつもりだったのだが、彼女のほうは駅員のアナウンスに教えられてというように受け取ったらしい。そうじゃない、と弁明しようとも思ったが、それもなんだと言葉を呑み込んだ。 若いときにヒロコに出会っていたら……と、内海は思った。もっと若く、出会っていたとしたら、どうなっていただろうか。 むろん、そんなことを考えても仕方のないことではあるが、そういう想像もまた楽しい。 いや、しかし……と、内海は思い直した。 二人とも若い時分に出会っていたとしたら、このように仲良く話などできなかっただろう。戦後のあのどさくさに紛れて小さな会社を興し、必死になっていたころの俺には、気持ちの余裕などどこにもなかった。 今だから、ヒロコともこのように幸せな時間がもてるのだ。 「次が最終ですって。間に合ってよかったわ」 ヒロコに言われて、内海は驚いた。 「おや、もう……そんな時間でしたか」 終電に間に合うかどうかなどということに、まるで気持ちがいっていなかった。 ぼんやりしていることが多くなった。 窓の脇に椅子を寄せて座り、何も起こらぬ外の景色を眺めていて、振り返って部屋が暗くなっていることに気づいたりする。何時間もじっとしていたのだとわかって、自分に呆れかえってしまう。 「どうしようもないな……」 つい、口に出た。 ヒロコは、ボケていないと言ってくれたが、ときどき、自分が不安になる。もともと物忘れはするほうだが、最近はそれがひどくなってきているような気もするのだ。 困ってしまうのは、よいこらしょと立ち上がって表へ出て、はて、どこへ行こうとしていたんだっけとわからなくなってしまったときだ。これが、よくある。 これが、昔のことならよく覚えているのだ。何十年も前のことは、はっきりと覚えているのに、今したばかりのことを忘れてしまう。 しっかりせにゃいかん、とは思うが、どうやったらしっかりできるのかがわからない。 情けないことだ、と内海は首を振った。 |
![]() | ヒロコ |