![]() | 24:13 新橋-銀座駅 |
目の前のドアガラスの向こうを、灰色にくすんだ壁が流れていた。 大野は、そこに映っている自分の顔を見つめた。 自分の顔は、あまり好きではない。しまりのない顔だ。眼と眼の間が離れ、広がり気味の鼻の下に薄い口が貼り付いている。貧弱な耳が左右に立ってついているのも気に入らない。さほどの大きさはないのに、立っているお蔭でなんとなく耳が大きく見えてしまう。 オフクロゆずりの顔だった。妹は父親似だ。昔のアルバムをみてみると、若いころのオヤジはけっこう二枚目でいい顔をしていた。その骨格を妹はもらっている。だから、かなりモテているらしい。 大野は、オフクロ似だった。モテたためしなど、1度もない。 情けねえツラしてるな……。 ガラスに映った自分の顔を見つめながら、大野は口の中で呟いた。 新橋で、こんな遅い時間に話ができる場所というとどこだろう──思いめぐらせてみたがイメージがわかなかった。あまり新橋は得意ではない。 酒の飲めるところなら、けっこうありそうだ。どこかのバーにでも行ったのだろうか。カウンターに並んで腰掛けている三宅と千佳子を、大野はぼんやりと想像した。 「なに言ってんのよ。びっくりするなあ。なんであたしなのよ、もお」 突然、横のシートに座っている女の子が大きな声を上げて、大野はチラリとそちらへ目をやった。どうやら4人組の男女らしい。女が2人腰を下ろし、男2人は彼女たちの前に立っている。 大野は、ドアのほうへ目を戻した。 ──今度、ちゃんと話をします。 と、三宅は大野に言った。その声が、耳に残っている。普段の三宅の言葉ではなかった。あまりに他人行儀な言葉だった。 ふう、と大野は息を吐き出した。 1人で考えても仕方のないことだった。事情もわからず、ああだこうだと思い悩んでも、どうにもならない。 ちゃんと話すというのだから、話してくれるのを待てばいいのだ。 そうは思っても、やはり自分が情けなかった。 気懸かりなのは、今回のことで、千佳子と自分の仲がぎくしゃくしてしまわないだろうかということだった。 千佳子は、大野に腹を立てていた。自分を睨みつけた彼女の視線や、言葉の端々からも、腹を立てていることはよくわかる。時間が経てば、その怒りも収まってくれるだろうとは思っても、この先の展開が読めないだけに不安だった。 キスをしたことがあるとはいえ、たったの1度だけだ。それも、そのあと「まだ、そういうの早いわ」と、やんわり断られた。千佳子とは、ときどきデートをしているものの、進展はない。 積極的に大野が出るのを待っているのだと自分に言い聞かせてみても、それは勝手な思いこみにすぎないかもしれないのだ。あのキスをしたデートの後、千佳子はことさら2人きりになる場面を避けていたようにも感じる。 「…………」 つまり、まだ大野と千佳子の間には、それを進展させていくだけの下地さえ作られていないのだ。 そんなとき、オレは、彼女を怒らせるようなことをしてしまった……。 今更のように、大野は三宅に千佳子を紹介したことを後悔した。自分のやったことが、あまりにも軽率だったと、今になって思った。 千佳子を三宅の恋人だと偽って、オフクロさんを安心させる──そんなこと、セッティングしてやるんじゃなかった。 そのために、三宅と千佳子は窮地に追い込まれ、お芝居がばれた後は、ヤツとオフクロさんの間にも妙なものが残ってしまう可能性だってある。 なんだか、すべてをぶち壊しにしてしまったような気がした。 なんで、こんなこと、しちまったんだろう……。 大野は、降りていったはずの三宅が突然現われ、自分を思いきりぶん殴ってくれないものかと思った。 そうしてもらったほうが、よっぽど気が楽になる。 でも、三宅は「今度、ちゃんと話をします」と言い置き、千佳子を連れて降りて行ってしまった。 また、ガラスの中の自分の顔を眺めた。 横のシートの4人組は、あいかわらずはしゃいだような声を上げていた。 みなさん、楽しそうですね──。 せっかく、マルトーの若宮部長との接待でいい気分になっていたのに、その気分もどこかへ消えてしまった。気がつけば、酔いも完全に醒めている。 まいっちゃったなあ。 ガラスに映った自分の顔に笑いかけてみた。 なんだか、まるで笑った顔に見えなかった。どこか、それは泣き顔のようにも見えた。 いきなり「キャーッ!」と、けたたましい女性の悲鳴が聞こえて、大野はギョッとして後ろを振り返った。 誰が悲鳴を上げたのか、まったくわからなかった。電車に乗っている全員がホームのほうへ目をやっている。 え……? 驚いて、大野は眼を見開いた。 ホームの向こうに大きな炎が見えた。思わず、爆弾かと逃げ出したくなったが、その炎は右に左に動き回っている。 なんと、それは人間だった。人間が、炎を出して燃えている。 わけがわからなかった。 ここは銀座だ。地下鉄の銀座駅だ。銀座駅のホームで、なんで人が燃えているんだ? いったい、なにが起こってるんだ? 前のほうから後ずさりしてきた男が、大野にぶつかった。一瞬、その男と目を合わせたが、すぐにまた、男も大野もホームのほうへ目を返した。 ホームも、この車内も、騒然としていた。横にいた女の子2人も立ち上がり、抱き合うようにしてホームのほうを見つめている。一緒にいた男2人は、どこへ消えたのか姿が見えなかった。 電車の窓枠や人の陰になってよく見えないが、炎を上げている人間は転げ回っているようだった。その後を追いかけている男たちがいる。 事態がまったく把握できなかった。 テロリストの襲撃なのか、なにかの事故なのか、あるいはタチの悪いイタズラでもしているのか……まるで判断がつかない。 酔っぱらって幻覚をみているわけはなかった。酔いは、三宅と千佳子のお蔭ですっかり醒めている。 なんだか、急に小便がしたくなってきた。 子供のころからそうなのだ。極度に緊張したりすると、おしっこがしたくなる。大人になった今でも、仕事先で失敗などすると途端に尿意を催してしまう。 トイレに行きたいと思ったが、足は動かなかった。 なにが起こっているのかわからない。 逃げたほうがいいのか、それともじっとしていたほうがいいのか、その判断がまるでつかなかった。 ただただ、小便がしたかった。 なんなんだよ、これはよお……かんべんしてくれよお。 心の中で、大野はそう叫んだ。 その時、向こうのホームが、目映いばかりに輝いた。そして、まるでスローモーションを見ているように、乗っている電車全体が大きな衝撃音と共にアメのようにたわむのが見えた。 膀胱が緊張を失い、小便が下着を濡らしたが、大野はすでにそれを感じることができなかった。大野は、そのとき電車ごと押しつぶされていたのだ。 |
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横のシート に座ってい る女の子 |
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後ずさり してきた男 |