前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 武藤 薫
(むとう かおる)


     照れを紛らわせようと、薫は前に立っている根本君を見上げた。
「根本君ってさ」
 言うと、薫に目を向けてきた。笑いがほっぺたのあたりに残っている。真っ直ぐ見つめられると、ちょっとくすぐったい。
「根本君って、自分の部屋に帰って寝るって、あるの?」

「あるよ、そりゃ」と、根本君は困ったような笑顔になって言った。「ひと月に3日ぐらいは帰って寝てる」
 びっくりしてしまった。
「……ひと月に、3日?」
 まあね、と言うように、根本君はうなずいた。

「アパートだよね、根本君って」万里っぺが横で言う。「家賃、もったいなくない?」
 ああ、ほんとだと、薫も万里っぺに同感した。
 根本君は、うなずきながら「オレもそう思う」と、顔をしかめて見せた。
「実質は10分の1しか使ってないんだから、家賃も10分の1にしてもらえればいいんだけどな」
「ルームメイトかなんか見つけて、住むっていうのは?」
 そう言って、万里っぺは、薫のほうに目を向けてきた。同意を求められたのかと思ったが、万里っぺは、突然、とんでもないことを言った。
「薫ちゃんとかさ」
 思わず、喉になにかが引っかかったような声を上げてしまった。

 ば、ば、ばかぁ……なによ、それぇ!
 万里っぺの肩を押しながら、薫は笑いこけた。
「なに言ってんのよぉ。びっくりするなあ。なんであたしなのよ、もう」
「だって、薫ちゃんだって1人暮らしなんだし、ちょうどいいじゃない。ね? 根本君」
 と、万里っぺは、とってもしつこい。
 そしてなんと、根本君までが、
「願ってもないね。膝枕付きだったら、さらに嬉しい」
 なんぞと、抜かしたのだ……。薫は、ペチペチと万里っぺをひっぱたきながら、自分がとんでもなく真っ赤になっているのを意識した。

 なんだか、めちゃくちゃに恥ずかしかった。
 ヤバすぎる。なんというか、こういうのは、とっても、とっても、苦手なのだ。
 万里っぺのやろー、おぼえてろよな。まともに根本君の顔が見れなくなっちゃったじゃないか。もう、どうしてくれんのよ。

 だめなんだよなあ。
 ほんとはこういうのは、さらりと笑いながらかわしてやれなくちゃいけないんだろうけど、あたしって、まるでだめだ。みっともないったらありゃしない。
 根本君が「願ってもないね」って言ったのは、もちろん冗談だ。万里っぺがあたしをからかっているのに乗っかっただけのことだ。そんなことは、よくわかってる。なのに、なんでこんなだらしない答えしかできないのよ。
 だめじゃん。

 なんか、やばいなあ。

 ふと、気がつくと、いつの間にか電車が停まっていた。
 銀座だ、銀座。

「そう言えば」と、頭の上で小早川さんが言った。「根本の浮いた話って聞いたことないな」
 根本君が笑い声を上げたが、彼らのほうへ目を上げられない。
「聞いたことなんかあるわけないだろ。そもそも、影も形もないんだからさ」
「ずっとか?」
「彼女作ってるような時間を、誰かが回してくれるといいけどな」
「なるほどね」

 男ども2人の会話を聞きながら、薫は、なるべく気づかれないように深呼吸を2回やった。

「女が嫌いってことじゃないんでしょ?」
 隣で、万里っぺが、また余計なことを訊いている。
「女は好きだよ。べつに公言することもないだろうけど」
 根本君が、さらりと受け流した。
 薫は、えいっ、と意を決して顔を上げた。

「理想が高いんだよね、根本君の場合、きっと」
 言うと、小早川さんが首を振った。
「もう、理想云々を言ってる場合じゃないだろう。男も30超えてきたら」
 なんだかわからないが、小早川さんの言葉には刺がある。
「ひどいなあ。年齢なんて関係ないじゃないですか。根本君みたいな、いい男だったら」
 そう言った途端、万里っぺが「わあ」と声を上げた。

「白状した。薫ちゃんが白状した」などと、からかうように言う。「やっぱりもう、薫ちゃん、根本君の部屋に押しかけるしかないわよ」
「え? え? え?」
 なんだか、自分が、動物園のアシカにでもなったような気がした。無駄な音しか喉から出てこない。
「なんで、そうなるのよ」隣の性悪女をにらみつけた。「万里っぺ、なんでそんなことばっかり、根本君だって迷惑じゃん」
「まあまあまあ」
 万里っぺは、楽しそうに笑いながら、薫の腕を押さえる。
「迷惑じゃないよね、根本君」
 だめ押しのように、万里っぺが言った。

 ほんとに万里っぺをひっぱたこうとしたとき、どこかで「キャーッ!」と、女性の悲鳴が上がった。

 ギョッとして、薫は声が聞こえた方向に目を上げた。
 同時に、目の前にいた根本君の姿が消えた。見ると、彼は左側のドアへ急ぎ足で向かっている。バッグからカメラを取り出して顔の前に構えながら、根本君は電車を降りて行った。

「あっ……」
 と、万里っぺが声を上げ、シートから立ち上がった。そして、小早川さんも、慌てたように根本君を追って電車を降りて行く。
 わけがわからず、薫も立ち上がり、万里っぺの見ている方向へ目をやる。

「…………」

 自分の見ているものが信じられなかった。
 ホームの上を、火の固まりが転げ回っていた。そして、次の瞬間、それが燃えている人間だということに気づいた。

「なに……あれ、なに?」
 万里っぺの腕をつかみながら訊いた。万里っぺも、薫の腕にしがみつくようにして、黙ったまま首を振った。

 とにかく、この銀座駅で、なにかとんでもない事件が起こっているらしい。それだけはわかる。
 根本君は、自分の取るべき行動を瞬時に判断して電車から飛び出して行ったが、薫はまるで動けなかった。足がすくんでしまって、どうしたらいいのかわからない。
 薫の腕にしがみついている万里っぺが何か言った。その言葉は聞き取れなかった。独り言のようでもあった。

 あ、と気づいて、薫はバッグから自分の携帯を取り出した。カバーを開け、短縮登録されている本社の番号を押す。その指が、情けないぐらい震えていた。
 携帯電話を耳に押しつけるが、なにも聞こえてこない。
「…………」
 よく見ると「圏外」だった。

 とにかく、知らせなくちゃ……と、薫は自分の周囲を見渡した。車内の乗客全員が、ホームのほうを見つめていた。
「電話、探そう」
 と、薫は、万里っぺの腕をつかんで、ドアへ向かおうとした。
 その瞬間──。

 薫の前に並んだ電車の窓全体が、真っ白に光を発した。同時に凄まじい音と共に、ガラスがすべて砕け散り、薫めがけて飛んできた。
 しかし、薫は、その無数のガラスの破片が自分に突き刺さるのを知覚することはできなかった。その時、薫の意識は、すでに消え去っていた──。


 
    根本君  万里っぺ 小早川
さん
  
    燃えてい
る人間
 

   前の時刻 ……