![]() | 24:13 新橋-銀座駅 |
「根本君ってさ」と、薫が顔を上げて言った。「根本君って、自分の部屋に帰って寝るって、あるの?」 「あるよ、そりゃ」根本は、やはり眠そうな声で答える。「ひと月に3日ぐらいは帰って寝てる」 「ひと月に、3日?」 間違ってるよな、と小早川は小さく溜め息を吐いた。 ひと月に3日しか帰らないことを、おそらく上の人間は高く評価するだろう。しかし、そういう仕事の仕方が美化されること自体が間違っている。上にいる人間たちは、自分たちだってそうしてきたんだからと、それがおかしいとも思わない。体質なのだ。間違っている。 「アパートだよね、根本君って」万里子が言った。「家賃、もったいなくない?」 「オレもそう思う。実質は10分の1しか使ってないんだから、家賃も10分の1にしてもらえればいいんだけどな」 家賃がもったいないとか、そういう問題じゃないだろう。まあ、こういう場で議論するような話題でもないが……。 「ルームメイトかなんか見つけて、住むっていうのは?」と、万里子が続けて言う。「薫ちゃんとかさ」 途端に、薫がひきつけを起こしたような声を出した。 「なに言ってんのよぉ。びっくりするなあ。なんであたしなのよ、もう」 面白がって、万里子は薫をからかっている。 「だって、薫ちゃんだって1人暮らしなんだし、ちょうどいいじゃない。ね? 根本君」 ニヤニヤ笑いながら、根本が万里子に応じた。 「願ってもないね。膝枕付きだったら、さらに嬉しい」 そりゃあ、ひと月に3日しか自分の部屋に帰れない生活じゃ、彼女もできないな、と小早川は思った。 だから間違っているというのだ。 そもそも、彼女を作り、結婚相手を見つけて、家庭を築くというのは、人として基本的に与えられた権利だ。その当たり前の権利が、仕事によって奪われている。 小早川自身は、学生時代から付き合っていた千帆と結婚することができた。しかし、家庭を持っても子供は作れない。千帆にしたって勤めを辞めることなど難しいし、ほとんどすれ違いに近い生活だ。間違ってるよな。 電車が銀座駅に入線し、車内が幾分華やいだ。 時間と格闘するような仕事を選んだのは自分自身だし、むろん仕事自体には文句などない。というよりも、この仕事以外、自分には考えられなくなっている。 そういう意味では、恵まれていると自分でも思う。世の中には、自分が望む仕事に就けない人間も多いのだ。しかし、だからこれでいいのだとは思えない。 相変わらずつり革にぶら下がって、テナガザルのような格好をしている根本に目をやった。 こいつは、こんな状態をどう受け止めているんだろう。 「そう言えば」と、小早川は声をかけた。「根本の浮いた話って聞いたことないな」 根本は、よせよと言うように笑い声を上げた。 「聞いたことなんかあるわけないだろ。そもそも、影も形もないんだからさ」 「ずっとか?」 はいはい、と言うように根本はうなずく。 「彼女作ってるような時間を、誰かが回してくれるといいけどな」 「なるほどね」 なんとなく、小早川はうなずいた。 「女が嫌いってことじゃないんでしょ?」 万里子が、トンチンカンな質問を根本に投げてきた。からかっているつもりだろうが、レベルが低すぎる。 「女は好きだよ。べつに公言することもないだろうけど」 と、根本は軽くそれを受け流す。 「理想が高いんだよね」と今度は薫が万里子に参加する。「根本君の場合、きっと」 やれやれ、と思いながら小早川は首を振った。 「もう、理想云々を言ってる場合じゃないだろう。男も30超えてきたら」 言うと、何を勘違いしたのか、薫は怒ったような声を上げた。 「ひどいなあ。年齢なんて関係ないじゃないですか。根本君みたいな、いい男だったら」 万里子が、わあ、と囃し立てる。 「白状した。薫ちゃんが白状した。やっぱりもう、薫ちゃん、根本君の部屋に押しかけるしかないわよ」 「え、え、え──」と、からかわれた薫は顔を紅潮させながら万里子の腕を叩いた。「なんで、そうなるのよ。万里っぺ、なんでそんなことばっかり、根本君だって迷惑じゃん」 「まあまあまあ」 と、万里子は性懲りもなく根本を見上げる。 「迷惑じゃないよね、根本君」 なんだかうんざりした。 このガキみたいなやりとりには、ついていく気も起きない。中学生なのか、お前らは? そのとき、どこかで「キャーッ!」と女性の悲鳴が上がった。 ギクリとして、声のした方向を探す。 根本が車両の前方へ移動した。ドアを出て降りていく。その手には、いつのまにかカメラが握られていた。気がついて、ホームのほうに目をやり、小早川はそこで見た光景に愕然とした。 ホームの中央を、 大きな赤い炎が移動していた。炎の正体は人間だった。人間が火だるまになって、ホームの上を走り、転げ回っている……。 自分の出足の遅さに舌打ちしながら、小早川は急いで根本の後を追った。 バッグを探り、カメラを取り出してホームに降りる。フィルムの残量を確認し、少なくなっていることに腹を立てながら炎のほうへレンズを向けた。 ホーム全体が騒然としていた。 炎を上げて転がり続けている男に、2人の男性が脱いだジャケットで消火を試みている。その周囲には、なすすべもなく呆然と事態を眺めている人たちがいた。 小早川は、このホームの全体を写真に収められる場所がないか、周囲を見渡した。しかし、もともとが地下鉄の駅構内だ。動ける場所は限られている。第一、ホームは狭い。 シャッターを切りつつ、頭を整理しようとした。 小早川たちは電車に乗っていて、あの男が火を被った瞬間を見てはいない。しかし、このホームにいた人間たちは、それを目撃していたはずだ。 何が起こったのかを、誰に訊ねるのが一番いいだろう? 「根本、なんなんだ、これは!」 横にいる根本に言ったが、その答えはなかった。 とにかく、シャッターを切り続ける……しかし、フィルムが切れた。 バッグの中を探り、フィルムを取り出す。フィルムの交換に手間取りながら、小早川は唇を噛んだ。 やはり、もうデジタルにすべきなのかもしれない……。 デジカメで取材をするというのが、どうにも不安だった。得体の知れないものに頼ってしまうような感覚がある。しかし、少なくとも、このフィルム交換のようなロスタイムはかなり軽減されることだろう。 やっぱり、デジカメを考えるべきかもしれない……。 ようやくフィルムの交換を終え、カメラを構え直したときは、すでに男の身体からは炎が消えているようだった。 シャッターを押しながら、デジカメだ……と、また小早川は思った。 その瞬間、ホーム全体が真っ白く発火した──ように、小早川は感じた。同時に、小早川の身体は激しい衝撃を受け、吹き飛ばされた。知覚する間もなく、彼は蒸発していた……。 |
![]() | 薫 | ![]() | 根本 | ![]() | 万里子 | |
![]() | 炎の正体 |