前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 福屋浩治
(ふくや こうじ)


     福屋は、クーラーバッグを胸に抱えたままの兼田勝彦と、笑顔で彼を見つめている狩野刑事を見比べた。
「奥様に、和則ちゃんを確認していただきました」
 狩野刑事の言葉に、兼田は「おお……」と小さく声を上げた。
「私たちも、ひとまず安心しました。ほんとうによかったと思います」

 なんというセオリー通りの挨拶なんだ、と福屋はウンザリしながら狩野刑事を眺めた。もちろん、誘拐されていた子供が無事に保護できたということは朗報に違いないし、それは「ひとまず安心」だろう。
 しかし、今はそんなことを言っている場合か?

「ありがとうございました」
 と兼田が狩野刑事に頭を下げる。
「ただ」と狩野刑事は続ける。「兼田さんにはもう少しだけご協力いただきたいのです」
 兼田が、福屋にも視線を寄越した。
「協力……」

「2番線、お下がり下さい」と構内アナウンスが響く。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」

 しかし、そのあとに続けて狩野刑事が告げたことに、福屋は眼を見開いた。
「もうすぐ、あちらの2番線に電車が入ってきます。おそらく、その電車に犯人が乗っていると思われるのです」

「…………」
 とっさに、2番線に目を走らせる。
 その電車に犯人が乗っている……? それは、どこから得た情報なのだ? 本部で、そんな指示を受けた覚えはない。

「和則ちゃんは無事でしたが」となおも狩野刑事は兼田に向かって言う。「犯人はおそらく、和則ちゃんが救出されたことをまだ知りません。ですから、犯人を捕らえるためには、そこにお持ちの」と、狩野刑事は兼田が抱えているクーラーバッグを指さした。「お金を予定通り、現れた犯人に手渡していただきたいのです」
「渡す……んですか?」
 と、兼田が意外そうな声で言った。

 当たり前だ、と福屋はホームの向こうへ目を上げながら思った。電車が2番線に入線してくる。子供が無事であることを教えれば、被害者が身代金を渡す必要がないと考えるのは当然のことじゃないか。
 だから、知らせないほうがいいと言うのだ。

「もちろん、バッグに手を出した時点で、私たちは犯人を逮捕します。ですから、お金が奪われるご心配はありません。逆に、お金を渡すことができないと、犯人を捕らえることができないのです。なぜなら、私たちはまだ誰も犯人の顔を知らないからなんです」
「ああ……」

 こうなったら──と、福屋は到着した浅草行の電車を凝視した。
 この電車に犯人が乗っているという情報がどこからもたらされたものなのか、福屋は何も聞かされていない。さらに、それが正しい情報なのかもわからない。それを下っ端の福屋などが訊いても、おエライ狩野刑事や竹内主任は、黙れと一喝するだけのことだろう。
 だとしたら、自分がやるしかない。

 こんなルーチンワークばかりやっているような、やる気のない先輩たちに任せておくことなどできない。あんたたちは、警視庁の壁の額にでも入ってりゃいいんだ。

 停車した浅草行のドアが開き、乗客たちがパラパラと降りてきた。先頭車両の一番奥のドアから降りてきた男と女に、福屋は目をとめた。
「…………」
 はがっしりとした体格の悪党面をしている。のほうは、これもひと癖もふた癖もありそうな顔をしたお嬢さん風だ。

 あいつらが──?
 と、福屋は2人を凝視する。
 犯人は、男と女の2人組みであるということだった。
 2人は、ことさら人目を避けるようにしながら、こちらへ向かって歩いてくる。

 福屋は、グイッと下腹に力を入れた。
 しかし、そのとき、福屋の目にもう1人の怪しい人物が飛び込んできた。
 例のカップルの後方から、やはり彼らが降りてきたドアをくぐってひときわ大きな図体の男がホームに現れたのだ。その男はドアの前に立っていた老人を突き飛ばし、平然とこちらへ歩いてくる。

 いや──その歩みを止めた。
 こちらを睨みつけながら、大股を開いて立ちつくしたまま、痙攣するように身体を震わせている。そのまっすぐに睨みつけている眼には、明らかに狂気の色が見えた。

 よし、と福屋はその男のほうへ向かった。
 もちろん、男はまだ兼田とは接触していない。クーラーバッグに手を出してもいない。しかし、あいつは今、老人を突き飛ばしたのだ。その行為だけでも逮捕には値する。
 誘拐犯であることを自白させるのは、逮捕してからでも遅くはない。今は、なによりも迅速な行動が必要なのだ。

 男は、ホームの中央に突っ立ったまま、病的にも思える表情でこちらを見つめている。両の拳は固く握りしめられており、見てわかるほどの全身の震えが怒りを表している。

 福屋は、息を大きく吸い込みながら男の正面に立った。
「おい、お前──」
 と、言いかけたとき、男は突然、拳を握った右手を福屋のほうへ突き出した。

「わあっ!」

 身構える間もなく、その男の右手から真っ赤な火が飛び出してきた。一瞬にして、福屋の全身が炎に包まれた。

「わあああああああっ!」

 あまりの熱さと激痛に、福屋はその場に倒れ込んだ。
 全身を包んでいる炎から逃れようと丸太のようになってホーム上を転がってみる。しかし、炎は消えてくれそうにない。

「たすけてくれええええええええ!」

 転げ回りながら、炎と同時に液体のようなものが男の手から噴射されたようだと、頭の中で考えた。たぶん、ガソリンだ。

「ぎゃああああああ!」

 誰かが、火を消そうとしてくれているのか福屋の身体を叩いている。

 次第に意識が遠のいていく……。

 叫ぼうとしても、声が出ない。
 死ぬのか……と福屋は思った。
 俺は死ぬのか……。

 息ができない──。

 どこかで、鳥の鳴く声がした。
 湖畔に立っているような気分だ。風は優しく、そして肌に気持ちいい。
 利香子が笑っている。
「なあ、結婚とかそういうんじゃなくてもさ」
 と福屋は、利香子に言う。
 利香子は福屋に笑いかけている。
「だめ? そういうの」
 利香子は答えてくれない。ただ笑っている。
 鳥の鳴く声が、周囲を埋めている。

 福屋の周囲が、ひときわ明るく輝いた。


 
    兼田勝彦 狩野刑事 竹内主任
            図体の
大きな男
     老人 

   前の時刻 ……