![]() | 24:13 銀座駅 |
「奥様に、和則ちゃんを確認していただきました」 と、その女性は兼田に言った。 婦人警察官なのだと、そのときになって気づいた。スーツ姿で警察官には見えないが、この女性も刑事なのだ。 和則が無事だった──。 「おお……」と無意識のうちに声が出ていた。 無事だった。妻がそれを確認した。 「私たちも、ひとまず安心しました」と、婦人刑事が重ねて言った。「ほんとうによかったと思います」 「……ありがとうございました」 その言葉を言って彼女に頭を下げた途端、涙が出そうになった。今、この駅にいるすべての人に頭を下げて感謝したいと思った。 「ただ、兼田さんにはもう少しだけご協力いただきたいのです」 婦人刑事が言い、兼田は彼女と、横に立っている若い男を見比べた。この男も刑事なのだろう。 「協力……?」 「2番線、お下がり下さい」とホームにアナウンスが流れた。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」 協力って? 婦人刑事が、兼田の眼を覗き込むようにして続ける。 「もうすぐ、あちらの2番線に電車が入ってきます。おそらく、その電車に犯人が乗っていると思われるのです」 え? と、兼田は2番線に目をやった。 「和則ちゃんは無事でしたが、犯人はおそらく、和則ちゃんが救出されたことをまだ知りません。ですから、犯人を捕らえるためには、そこにお持ちの、お金を予定通り、現れた犯人に手渡していただきたいのです」 「…………」 兼田は、2人の刑事を見つめた。そして、クーラーバッグを眺めた。 犯人──。 和則が無事だったと聞いて、犯人のことが頭から飛んでしまっていた。 これから、犯人が現れる……。犯人は、和則が警察によって救出されたことを知らない。だから──。 「渡す……んですか?」 つい、兼田は婦人刑事にそう訊いた。そのとき、2番線に電車が入ってきた。 和則が戻ったなら、もうそれで終わりにしてはいけないのだろうか。この2000万を渡す……? 「もちろん」と婦人刑事は言う。「バッグに手を出した時点で、私たちは犯人を逮捕します。ですから、お金が奪われるご心配はありません。逆に、お金を渡すことができないと、犯人を捕らえることができないのです。なぜなら、私たちはまだ誰も犯人の顔を知らないからなんです」 「ああ……」 気持ちの整理がつかぬまま、兼田は刑事にうなずいた。 むろん、和則をひどい目に遭わせ、そして自分をこんな目に遭わせた犯人は憎い。とうてい許すことなどできない。だから、その犯人が逮捕されるのは当然のことだ。 でも……。 だけど、和則は無事だったのだ。今は妻の腕の中だろう。母親に抱かれて、和則は眠っているかもしれない。疲れただろうし、母親に抱かれて安心しているだろう。 だから、もういいじゃないか。 そんな気持ちになっていた。 クーラーバッグを抱えている手に力を入れた。 バッグには手提げもついているし、肩に提げるための布製のバンドもついている。だから手で提げても肩から提げてもいいはずなのだが、なんとなく持ち替えるような気が起こらなかった。中の2000万が惜しいということではなく、何かにしがみついていたかったのだ。 この2000万は、犯人に渡すために持ってきた。 だから、本当に渡してやったってかまわない。会社に1000万の借金をすることになるが、それはまた働いて作ればいいのだ。 和則が無事に戻ってきた。 それなら、2000万をくれてやったっていい。そのために用意した金なのだから。 奪われる心配はないと、この婦人刑事は言った。 でも、そんなことじゃない。 ──私たちはまだ誰も犯人の顔を知らないからなんです。 犯人の顔を知らない。 そう、その顔は見てやりたい。 そいつは、どうして私を狙ったのか? どうして和則を誘拐したのか? それを知りたい。 それまで脇にいた男のほうの刑事が、不意に離れていった。 「…………」 彼はホームを中央に向かって歩いていく。 はっとして、そのホームを見渡した。 いつのまにか2番線に電車が停まり、客たちが乗り降りをはじめていた。 いけない……と、兼田は息を吸い込んだ。 まだ終わったわけではない。 いままでの緊張が、和則救出の知らせで緩んでしまったが、そう、まだ終わったわけではないのだ。 突然、歩いていた刑事の身体が真っ赤に燃え上がった。 「…………」 驚いて、兼田は思わず一歩後ろへ身を退いた。 いったい、なにが──。 わけがわからなかった。 犯人が刑事に火をつけたのだろうか? どうして、そんなことをするのだ? 恐ろしい光景だった。 刑事は、全身火だるまになりながら、ホームの上でのたうち回っていた。その向こうに、仁王立ちになってこちらのほうを見つめている大男がいた。その男を、兼田はまるで知らなかった。 「あっ!」 いきなり、後ろから肩をつかまれて、兼田は声を上げた。 いつそこにいたのか、男が兼田を振り向かせ、抱えていたクーラーバッグの持ち手に手を掛けた。 「な、何を──」 とっさに、兼田はクーラーバッグを守ろうとした。 「はなせ!」と男が怒鳴った。「息子の無事を考えろ!」 「…………」 え、と途端にバッグを抱える手の力が抜けた。 じゃあ、こいつが──。 男は、バッグを兼田から奪い取ると、そのまま先ほど兼田が降りてきた1番線の電車のドアに向かって行く。 しかし、婦人刑事がその男を蹴り上げた。うっ、とうめき声を上げながら、男はホームに倒れ込んだ。 そのとき初めて、兼田はその男の顔を見た。 「お前……有馬じゃないか」 婦人刑事が男の肩口を足で引き起こし、身体を仰向かせた。そこに手錠がかかる。 有馬……。 男は、有馬直人だった。 半年ほど前まで、兼田の会社にいた男だ。製品を横流しして会社の金を横領していた。だから馘首にした。 お前は、ほんとうに馬鹿な奴だったんだな……。 ホームの向こうからやってきた年配の刑事が有馬の腕をつかんで立たせた。ため息をつきながら、兼田は有馬を眺めた。 そのとき、目映い光が兼田の視界をすべて白く塗りつぶした。凄まじい音とともに兼田は空中へ飛ばされ、そして、何も見えなくなった──。 |
![]() | 婦人 警察官 |
![]() | 若い男 | ![]() | 大男 | |
![]() | 男 | ![]() | 年配の 刑事 |