前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 有馬直人
(ありま なおと)


     逃げた……いや、まさか。

 米村に限って、怖くなって逃げるなどということは有り得ない。あのバカの性格はよくわかっている。だいたい、怖さというものを知らないのだ。
 恐怖感を持たない人間というのは、逆に怖い。

 逃げるという行動パターンは、米村には皆無だろう。それは、彼にとって最大の恥であり、屈辱であるはずだ。

 では、どこに?

 有馬は、再び車両の向こうへ目をやった。
 つい先ほど米村が座っていたシートには、誰の姿もなかった。乗客が有馬の視界を悪くしている。

 しかし、いくら丹念に車内を見回してみても、米村の姿はどこにもなかった。

 不安が膨らむ。
 もう、銀座到着までいくらの時間もない。時刻表では上下線とも同時に銀座に着くことになっているが、実際には渋谷行のほうが若干早く到着する。5回確認して、5回ともそうだった。
 つまり、兼田はすでに銀座駅のホームに立っているはずなのだ。

 電車がスピードを落とし始めた。
 どうすればいい……と、有馬は唇を噛んだ。

 と、その途端、前方から銀座駅の目映い照明が迫ってきた。車内がホームの明かりに照らされ、白っぽく輝く。
 とっさに、ホームに視線を泳がせた。

 いた……!

 指定通り、兼田は青いクーラーバッグを胸に抱くようにしてホームに立っていた。
 それを確認し、有馬はシートを立って一番先頭のドアへ移動した。兼田はホームの中央に向かって立っている。こちらのドアから降りれば、兼田には見えない。

 とにかく、理由はわからないが、ここに米村はいない。
 しかし、身代金を手に入れるチャンスは、今しかない。もう1度、などということは有り得ないのだ。

 とすると、兼田からあのクーラーバッグを受け取るのは自分しかいない……。

 ドアが有馬の前で開いた。
 ゆっくりとホームへ降りながら、まだ有馬は迷っていた。ほんの数メートル前方に兼田の丸い背中が見えている。兼田のそばには体格のいい若い男が立っていた。周囲を警戒するように視線を往復させている。あれは刑事だろう。兼田を挟むようにして、刑事の反対側にがぼんやりと立っている。到着した電車に乗ろうとする気配がないのはやや奇妙だが、誰かを待っているような感じでもあった。

 刑事がいる……。

 あの刑事も問題だが、やはり最大の問題は有馬自身がクーラーバッグを受け取るということだった。
 むろん、兼田は有馬の顔を覚えていると考えるべきだ。あいつは馘首を言い渡すとき、面と向かって有馬を罵倒したのだ。
 だからこそ米村にやらせることにした。

 クーラーバッグを受け取った時点で、自分が犯人であることを告げてしまうことになる。
 しかし、金の受け渡しは今しかない。あのクーラーバッグには2000万が入っているのだ──。

 有馬はホームの中程で足を止め、兼田の背中を見つめた。
 どうすればいいのか……。

 そのとき、兼田の横についていた刑事が、すい、と兼田から離れた。
「…………」
 見ていると、刑事はホームを中央に向かって足早に歩いて行く。刑事の向かっている先へ目をやって、有馬は眉を寄せた。図体の大きな男が、こちらのほうへゆっくりと歩いていた。その歩き方がかなり奇妙だった。酔っぱらっているような、足下がおぼつかない歩き方だ。男の後ろのホームに倒れている老人老婦人の姿が見える。
 なんだ、あれは……と、男を凝視した。

「あ──」

 思わず声を上げたのは、そちらへ向かっていた刑事が、立ちふさがるようにして大男の前に立ったときだった。
 いきなり、刑事の全身が真っ赤に燃え上がり、火だるまになったのだ。

 ホームのあちこちで悲鳴が上がる。
 刑事は、全身を炎で覆われながら、崩れるようにホームに倒れ、叫び声を上げながらゴロゴロと転がりはじめた。

 なにが起こったのか、まるでわからなかった。
 わからないまま、有馬は正面の兼田に目を返した。
「…………」
 その瞬間、心が決まった。

 今が、チャンスだ。早くしなければ、渋谷行の電車が発車してしまう。

 有馬は、背後から兼田の背中に飛びついた。
「あ──」という声が兼田の口から漏れたが、かまわずに彼が胸に抱えているクーラーバッグに手を掛けた。クーラーバッグの持ち手をつかみ、力任せに引っ張る。

「な、何を……」
 兼田がバッグを引き戻そうとする。
「はなせ」と有馬は声を上げた。「息子の無事を考えろ」
 怒鳴りながら、バッグの持ち手を兼田の手からもぎ取る。そして、そのまま渋谷行の電車のほうへ足を向けた──。

「ぐっ……」

 下腹に強烈な痛みを感じて、有馬はホームの上につんのめった。兼田の脇に立っていた女が、いきなり有馬の股間を蹴り上げたのだ。
 あまりの痛さに、有馬はクーラーバッグを抱えたまま、ホームにうずくまった。

「お前……有馬じゃないか」
 頭の上で、兼田の声が聞こえた。
 同時に、肩口を蹴られ、有馬は仰向けにされた。バッグを持っていた右手をつかまれ、女がその手に手錠を掛けた。女の脇には、いつやってきていたのか厳つい顔の男が立っていた。男は、腕を取って有馬を立たせた。

 左の手首に、もう片方の手錠が掛けられた瞬間……周囲が目映い光で輝いた。
 いや、輝いたように見えた──。

 次の一瞬、有馬の全身は背後の階段に叩きつけられた。
 しかし──階段に到達したとき、有馬の身体はすでに蒸発していたのである。


     兼田  体格の
いい
若い男
 
   
    図体の
大きな男
 老人  老婦人 
    厳つい
顔の男
 

   前の時刻 ……