前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 米良ヒロコ
(めら ひろこ)


     でも、そのうち……と、ヒロコは思った。
 そのうち、自分も歩くことが難しくなってくるだろう。思っているよりもずっと早く、その日がやってくるのかもしれない。
 そうなったとき、やはり誰かに助けてもらわなければならなくなるのだろうか。

「…………」
 なんだか、それを想像するのは厭だった。
 そんなことになったら、惨めったらしい気持ちばかりの毎日になってしまわないだろうか。

「2番線、お下がり下さい」と、構内アナウンスが告げた。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」

「電車が来るわ」
 と、ヒロコは気持ちを振り払うように言った。
「こちらでいいんですね」
 確認するように、内海が言う。
 ええ、とヒロコはうなずいた。
「向こうに停まっているのは渋谷行なんですよ。これから入ってくるのが浅草行」

 内海は、ふんふん、とうなずきながら、また腰のあたりをさすった。その内海を見ながら、ヒロコは小さく首を振った。

 自分の足で歩くことができなくなって、人に介護を頼むなんて、やっぱり惨めったらしい。何をするにも、人の手を借りなければならないようになるぐらいなら、その前に死んでしまったほうがいいような気がする。

 気がつくと、立っているホームの左手から電車が入ってきているのが見えた。
 さらにまた、ホームが騒がしくなってきた。これでは、話もできない。

 内海は、どこかぼんやりとした表情で腰に手を当てたままホームの床を眺めていた。
 ずいぶん疲れさせてしまった、とヒロコは申し訳ないような気持ちになった。この人は、会社を自分で興したり、怒濤のような人生を送ってきた人なのだ。自分の身体を酷使し続けてきた人だ。
 その身体も限界が近づいている。無理はできない身体なのだ。

 電車がゆっくりと停車した。
 ちょうどヒロコと内海が立っている目の前にドアがある。そのことも嬉しかった。ドアが開くと、男性女性のカップルが降りてきた。
 カップルをやり過ごし、ヒロコは内海を振り返った。

「…………」
 どこか内海の様子がおかしかった。
「どうしたの? 大丈夫?」
 腕をつかみながら訊くと、内海は、あ、ああ……と微笑んだ。
「いや、ちょっと考え事をしていました」
「お疲れじゃない?」
「いやいや、心配するほどのことじゃないですよ」
 あはは、と内海は笑ってみせた。
「電車に乗って腰を下ろしましょう」

 うんうん、とうなずいて、内海がゆっくりと電車のドアへ向かった。その背中を支えてあげようとヒロコが脇へ回ったとき──。

 電車から降りてきた大きな男の人が、いきなり内海を突き飛ばした。
「あ……」
 と思ったときは、内海の身体がホームの上に倒れていた。

 なんてこと……。
 慌てて、ヒロコは内海の上に屈み込んだ。
 内海を突き飛ばした男は、平然と背を向けて歩いて行く。

「内海さん、内海さん……」
 名前を呼びながら、顔を覗き込んだ。
 内海は、ぼんやりとした表情のまま、宙を眺めている。その瞳が、小刻みに揺れていた。

 誰か……誰か……。
 叫んだつもりだったが、声が喉から出てこない。
 どうしたらいいのかわからず、内海の頭を両手で包んだ。
「内海さん……聞こえる? 内海さん?」
 内海の表情は変わらなかった。

「大丈夫ですか?」
 若い男性が電車から降りて、声を掛けてきた。ホームに跪き、内海の顔を覗き込む。

 そのとき、ホームの向こうで「キャーッ!」という女性の悲鳴が上がった。そちらへ目を向けて、ヒロコは思わず息を呑んだ。

「…………」
 ホームの中央で、1人の男性が火だるまになって転げ回っていた。
「な、なんだ──?」
 内海を助けに来てくれた男性も、そちらを向いて眼を見開いている。

 いったいどうなってしまったのか、ヒロコにはまるでわからなかった。気がつくと倒れたままの内海の肩を握りしめていた。薄くて、すぐに折れてしまいそうな肩だということに、そのとき気がついた。

 我に返ったように、若い男性が内海に目を返した。
「救急車を──いや、駅員さんを呼んでくれ。担架が必要だ」
 男性は、後ろにいた女性にそう告げた。
「呼んできます!」
 言いながら、女性がホームの中央のほうへ走って行く。

「奥さんですか?」
 訊かれて、ヒロコはつい、うなずいた。うなずいたあと「奥さんなのか」と訊かれたのだと思い直したが、訂正することもできなかった。

 後ろから、別の男性と女性がヒロコを両側から挟むように覗き込んできた。女性のほうは外国の人だった。
「安全な場所に移したほうがいいんじゃないですか?」
 と男のほうが訊いた。
「脳震盪を起こしてる。下手に動かさないほうがいいかもしれない」と、若い男性は言い、ヒロコのほうへ顔を上げた。「おいくつですか、ご主人は」
「89です」
 若い男性は、内海の首の下へ手を差し入れながらうなずいた。
「あなたはお医者さんですか?」
 後から来た男性が訊ねた。若い男性は首を振った。
「いえ、病院に勤務していますが、医者ではありません」

 ヒロコにはとっさに、その意味がわからなかった。勤務しているが医者ではない……。
「ちゃんと処置のできる人が来るまで、動かさないほうがいいと思います」
 続けて、若い男性はそう言った。
「そうかもしれないが……」
 と、反対側から内海の手首を取りながら、もう1人の男の人が呟いた。
 ヒロコは、どうしていいのかわからなかった。隣にいた外人の女性が、優しくヒロコの肩を抱いてきた。何かを耳元でささやかれたが、何を言われたのかはわからなかった。
 ヒロコは眼を閉じた。

 お願いですから、この人を死なせないで。
 大切な人なんです。私を大切に思ってくれている人なんです。

 ホームの向こうが騒がしかったが、ヒロコには内海しか見えなかった。
 内海は、ぼんやりとした表情で、天井のほうへ目を向けていた。
 その顔が、ふと、ほころんだように見えた。

 一瞬、その内海の身体が真っ白に輝いた。いや、輝いたのは内海だけではなかった。ヒロコの周囲がすべて白く光を放ち、そして次の瞬間、ヒロコは凄まじい力で叩きつけられたように内海の上へ倒れた。そのまま意識がなくなった──。


 
     内海   男性   女性 
    大きな
男の人
 
若い男性  男性 
    後にいた
女性
別の男性 外国の人

   前の時刻 ……