前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 内海能章
(うちうみ よしあき)


     それに比べて、ヒロコは達者なものだ。
 むろん、自分よりも7つも若いのだから、当たり前なのかもしれない。そうかもしれないが、自分が82のときのことを考えてみると、そんなもんじゃなかったという気持ちにもなる。

 82の時分……入院したのは80の時だったか? いや、それより前だっただろうか。

 そんな記憶もあやふやになっている。
 あの入院はこたえた。どうにもならない身体にも嫌気がさしたが、精神的にも参ってしまった。いっそ殺してくれと、何度も思った。

 駅の放送が何かを言っている。それがよく聞き取れなかった。
 今の技術は進んでいるのだから、こんなこもったような音ではなく、もっとくっきりと聞きやすい音にしてくれないものだろうか。

 内海の気持ちを察したものか、「電車が来るわ」とヒロコが教えてくれた。とすると、ヒロコには今の放送がちゃんと聞こえているのだ。いい耳をしている。いや、単に自分の耳が遠くなってきているだけのことなのか。
「こちらで……いいんですね」
 訊くと、ヒロコは、ええ、とうなずいた。
「向こうに停まっているのは渋谷行なんですよ。これから入ってくるのが浅草行」

 ああ、そうか……と思いながら内海はうなずいた。
 そう、向こうじゃなくて、こちらなのだとさっき教えられたばかりじゃないか。

 これから先が、いったいどれだけあるのかわからないが、その人生の最後をヒロコと過ごしたい。
 90年近く生きてきて、ようやく出会えた人だ。
 せめてその最後は、この人と一緒に過ごしたい。

「親父が死なせたようなもんだ」
 不意に、息子の言葉が耳の中で響いた。
「お袋のこと、親父はなにもしてやってなかったじゃないか。あれだけしてくれたお袋に感謝の気持ち1つなかったじゃないか」

 いや、感謝していた……と、内海は胸の中で呟いた。
 感謝を口に出して言ったことこそなかったが、自分は自分なりに感謝していた。いつも、ずっと感謝していたのだ。

 そんなことを口に出して言えるものか、とあのころは思っていた。
 だが、口に出すべきだったのだと、今はそう思える。
 できれば、妻には死んでほしくなかった。代わりに自分が死ねばよかったのだ。

 ありがとう、というひと言が、なぜ自分には言えなかったのだろう……。

「どうしたの?」と、突然ヒロコに声を掛けられた。「大丈夫?」
 言いながら、ヒロコは内海の腕を取ってきた。
「…………」
 ふと、顔を上げると、目の前に電車が停まり、ドアが口を開けていた。
「あ、ああ……」ヒロコに笑ってみせた。「いや、ちょっと考え事をしていました」

「お疲れじゃない?」
 訊かれて首を振った。
「いやいや、心配するほどのことじゃないですよ」
 笑ってみせたが、ヒロコは表情を曇らせながら「電車に乗って腰を下ろしましょう」と内海の顔を覗き込んだ。

 内海はヒロコにうなずき、電車のドアへ足を運んだ。
「…………」
 目の前に、壁のように若い男が立ちはだかっていた。
 これは失礼、と脇へ避けようと思ったとき、内海は激しい痛みを胸に感じた──。

 そして、自分がどうなったのか、内海にはわからなかった。

 ──頭と胸と背中に痛みがある。
 自分がどういう姿勢でいるのかが、よくわからない。歩こうと思うのだが、どこへ足を向ければいいのかも判然としなかった。

「内海さん──」
 と遠くで呼んでいる声が聞こえる。
 ヒロコの声だと思った。
 眼は開いているはずなのに、ヒロコがどこにいるのかがよくわからなかった。もやもやとした光と影が、目の前で動いている。

 困ったことだ、と内海は思った。
 頭と胸と背中が痛くて、どうにも動きが取れない。息をするのも難儀だった。
「聞こえる? 内海さん」
 と、また遠くからヒロコが呼んだ。

 ああ聞こえています。
 そう答えたつもりだが、声は出ていなかった。
 もっと近くに来てほしい、と内海は思った。

 寒気がする。
 身体の裏側が、やけに冷たく感じる。

「注文が来ましたよ、社長!」
 新井の興奮する声がどこかで聞こえた。
「300個、至急送ってほしいって、そう言われたんです」
「ほんとか?」
「はい。300個」
 そう言いながら、新井はポロポロと涙を流していた。涙を流しながら、笑っていた。

 どうして、こんなことを思い出したのか、よくわからなかった。
 もう何十年も前のことだ。
 会社がようやく軌道に乗る、そのきっかけになった300個の注文だった。

 寒気がする。
 なぜ、こんなに寒いのだろう。

「二科展に出されるわけじゃないし、上手下手なんてどっちでもいいことじゃないかしら。曾孫さんの絵をお手本にして、練習なさったらきっと楽しいと思いますけどねえ」
 ヒロコが言った。
「立派な蒔絵のきれいな硯箱があったんですよ」
 またヒロコが言った。

「まあ……あたしの手を握ってくださるの?」

 もう少し、近くに寄ってもらえませんか。
 内海は、そうヒロコに呼びかけた。
 もっとそばで、あんたの声が聞きたいんですよ。

 手をヒロコのほうへ伸ばそうと思ったが、うまくいかなかった。
 なんだ、この手は……と、腹立たしかった。ほんとうに必要なときに、ちっとも役に立たない。
 足もなんだかうまく動いてくれないようだし、だいたい、自分が立っているのか寝ているのかもわからない。

 どうしようもない、と内海はまた思った。

「まあ……あたしの手を握ってくださるの?」
 ヒロコが訊き返した。
 その言葉に、内海は精一杯の笑顔を返した。

 最期の一瞬、内海はヒロコが自分の胸に飛び込んできてくれたのを感じ取った。


 
    ヒロコ  若い男 

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