前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 別所達也
(べっしょ たつや)


    「詳しいことを伺ってもいいですか?」
 と、六条忍が達也を見上げるようにして言った。
 弱ったなあ……と思いながら達也は彼女を見返した。

「いつからなんですか? そういう能力っていうか……テレパシーができるようになったのって。子供のころからずっと?」
 達也は首を竦めた。
「虫歯の治療をしてもらってからですかね」
「虫歯?」

 六条忍が眼を丸くした。その隣で、不二夫が細かく首を振っていた。下手なことは言うなという合図だろう。
 下手なことを言って、彼女に呆れられたのはお前のほうだろうが、と達也は思った。

「ああ……」と六条忍がうなずいた。「歯が疼くみたいな感じだって言われてましたよね」
 えへへ、と達也は照れ笑いをした。
「歯医者さんで、なにか特別な治療でもしたんですか?」
「いえ、ただ普通に虫歯を治してもらっただけです」
 もうどうでもいいや、と思いながら、達也は彼女のほうへ大きく口を開けてみせた。
「この奥歯です。銀がかぶせてあるでしょ」
「ああ……」

 口臭スプレーでもシュッとやっておけばよかったと、口を閉じてから思った。
 そのとき、窓から光が差し込んできた。銀座に着いたのだ。窓の外を銀座駅のホームが流れていく。

「その歯が疼いて、相手の考えていることが心に浮かぶんですか?」
 六条忍は、手帳を開きボールペンを構えている。それが彼女の仕事なのだ。彼女は興味本位で達也と不二夫のショーを見に来たのではない。これは取材なのだ。とにかく、答えるしかない。

「ラジオみたいに聞こえるっていうのかなあ。受信機みたいにっていうか」
「受信機? 歯が?」
 達也はニッコリと笑った。横で不二夫が必死に合図を送ってくる。その不二夫に、達也は笑ったままの顔を向けた。
「へんでしょ?」
 言うと、六条忍は手帳にメモを取りながら、ふーっと息を吐き出した。

 電車が停まり、ドアが開く。

「なんていうか……想像がつかない。歯が受信機みたいっていうのは、そういう感じがするってことなんですか? それともほんとうに歯がテレパシーを受け取っているっていうこと?」
 いや、テレパシーじゃなくて、と言いそうになった。FMなんですよ、FMの受信機になってるんです。
「聞こえるんです。まあ、クリアじゃないけど、注意深く聞くと、ときどきはっきり聞こえたりするんです。ほとんどはノイズみたいなもので、うまく聞き取れないことのほうが多いです」
「それは耳で聞くってわけじゃないんですよね。音として聞こえるんじゃないでしょう?」
 困ったなあ、と達也は頭をかいた。
「ええと、自分の感覚としては音みたいな──」

 ドアの向こうの光景に、思わず達也は言葉を呑んだ。
 電車を降りた男が、乗り込もうとしていた老人を突き飛ばしたのだ。
「…………」
 プロレスかK-1でもやっているようなマッチョタイプの大きな男だった。突き飛ばされた老人は、ホームの床に仰向けにひっくり返った。

「どうしたの?」
 六条忍が、やはりドアの向こうに目をやりながら訊いた。
「あいつ……突き飛ばした」
「突き飛ば──?」
 彼女の訊き返す言葉も途切れた。

 老人は、仰向けに倒れたまま眼を見開いている。奥さんなのだろう、老婦人がしゃがみ込んで老人に声を掛けていた。

 達也は、そのままドアへ向かい、電車を降りた。老人のところへ行って屈み込んだ。
「大丈夫ですか?」
 老人の顔が真っ白に見えた。
 後ろから六条忍も降りてきた。

 ホームの向こうで「キャーッ!」と女性が悲鳴を上げた。またあの男が何かしたのではないかと、達也はそちらを振り返った。

「な、なんだ……」
 信じられないようなことが起こっていた。
 ホームの中央で、が全身から炎を上げていたのだ。

 叫び声を上げながら、男はホームを転げ回る。
 なにがあった? どうしてあの人は燃えているんだ?

 ホームにいる全員が男を見ていた。
 弾かれたようにホームにいた乗客の何人かが男のほうへ走っていった。

 はっとして、達也は自分の前に横たわったままの老人に目を返した。
「救急車を──」と、達也は声を上げた。「いや、駅員さんを呼んでくれ。担架が必要だ」
「呼んできます!」
 と答えたのは、後ろに立っていた六条忍だった。彼女は、そのまま燃えている男と反対側へ走って行った。

「奥さんですか?」
 達也は、老人を覗き込んでいる老婦人に訊いた。婦人がうなずいた。
 まるで無意味なバカなことを訊いている、と達也は自分の質問に嫌気がさした。

 夫人を挟むようにして男性女性が、腰を落としてきた。その女性のほうが外国人だったことに、いささか戸惑った。
「安全な場所に移したほうがいいんじゃないですか?」
 男性のほうがそう言った。
 達也には、判断がつかなかった。
 あらためて老人の顔を覗き込んだ。
 眼を開いてはいるが、老人はまるで周囲に反応していない。虹彩は広がってはいないし、顔を近づけると呼吸もある。ただ、危険であることだけはたしかだった。

「脳震盪を起こしてる」と、達也は言った。「下手に動かさないほうがいいかもしれない」
 気になって夫人に訊いた。
「おいくつですか、ご主人は」
「89です」
 うなずいて、達也は老人の首の下へ手を差し込み、少し持ち上げて気道を確保した。

「あなたはお医者さんですか?」
 横の男がまた訊ねた。達也は首を振る。
「いえ、病院に勤務していますが、医者ではありません」
 そう、今、この老人に必要なのは救命士か医者だ。達也では、どうしたらいいかわからない。
「ちゃんと処置のできる人が来るまで、動かさないほうがいいと思います」
 頭を打って昏倒している人をむやみに動かすのは危険なのだ。

 病院に勤務していることを言ったのは間違いだっただろうか、と達也は思った。病院勤務という言葉が、人に間違った期待を持たせてしまうのではなかろうか。
 病院の中に仕事場があるだけなのだ。
 売店に勤めているだけなのだ。

 六条忍はまだだろうか、と達也はホームを見渡した。
 ホーム全体が異様な雰囲気に包まれていた。
 彼女が助けを呼びに行ってから、どのぐらいたつだろう。ついさっきだったような気もするし、もうずいぶんたったような気もした。

 横の男は老人の手を取ってやっていた。金髪の白人女性は夫人の肩を抱いてやっている。

 不意に、達也の奥歯が、ジージーとうるさく疼き始めた。
 これまで感じたこともなかったような、疼き方だった。どこかのFM局を受信しているわけではない。そんな音ではなかった。

 次の瞬間、達也の目の前が真っ白に反転した。
 そして、それと同時に奥歯が爆発を起こした──いや、達也にはそのように感じられた。爆発したのは達也の奥歯ではなく、ホーム全体だった。しかし、それを判断する余裕もなく、達也は首を支えている老人とともに、数万度の熱を持った爆風に打たれて蒸発した。


 
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