前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 佐伯寛樹
(さえき ひろき)


    「So there must be a difficult reason why I can't understand, right?」エマは、言いながら寛樹を覗き込む。「Are you saying that the reason I can't understand is because of cultural differences?」
「That's not what I mean...」
 と寛樹は首を振った。
 頼むから、という気持ちだった。
「I just don't know how to express my feelings.」

「2番線、お下がり下さい」と、アナウンスが流れる。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」

 Can't understand because of cultural differences……あるいは、そうなのかもしれないと思う。
 たとえば、僕が勤めているのは日本の会社なんだ、と言ったところで、エマはそれがどうして一緒に渡米できない理由になるのかと訊き返してくるだろう。

 出張に行くのは、寛樹だけではない。同僚も一緒なのだ。彼らは、興味津々で寛樹の妻を眺める。まるでバーの女の子を見るような目で自分の妻を観察されて楽しいわけがない。
 エマについて彼らが訊いてくるのは、決まってセックスがらみの質問だ。エマの日本語が、まだ日常会話もままならないということを知ってからは、彼女がいる目の前でもニタニタしながら話しかけてくる。
「やっぱりさ、下のオケケも金髪?」
 やっかみだということはわかっているし、彼らにしてもそれほど悪気があるわけじゃない。しかし、ウンザリするのだ。

「My English ability is only about the level of an elementary school kid,」そっぽを向いているエマに、寛樹は言った。「I can get across facts to some extent, but it's difficult for me to explain detailed nuances or complicated feelings I have.」
 エマは、じっと寛樹を見つめ、そして寛樹の胸をポンポンと叩いた。
「The difference between you and elementary school kids, is that they try really hard to express what they mean, even when they don't know the words, and you just clam up.」
「Oh....」と、寛樹はゆっくりうなずいた。「I guess you're right.」
「You don't have to be perfect.」とエマは続ける。「I mean, my Japanese is pretty bad. You speak to me in English so I don't try as hard as I should. I realize that. I know I have to try harder and learn to speak better Japanese. But that's not the problem.」

 入線してきた電車が、2人の前で停まった。
 ドアが開くと、寛樹はエマに目を返した。なんとなく、笑顔を作ってごまかし、ドアのほうへ彼女を誘った。
 エマは、寛樹を睨みつけながら、ため息を返してきた。

 先頭車両だった。
 もうちょっと後ろのほうがよかったかなと思いながら、降りる客をやり過ごした。乗ろうとしている老夫婦に気づいて、彼らを先に乗せることにした。老夫婦は、ゆっくりとドアに向かっている。

 この前の出張の時は、エマを同伴した。
 それで懲りた。
 エマは、同僚たちを彼女の実家に招待した。その招かれた夕食の席上でも、同僚たちは平気で寛樹に日本語で話しかけてくる。彼らだって、下手ながら一応英会話はできる。なのに彼らの言葉を、寛樹が一々通訳しなければならない。とうてい翻訳できないような内容も多い。だいたい失礼だ。

 エマは、自分が彼らの笑い話のサカナにされているということを薄々知っている。でも、彼らの言葉をそのまま通訳したりしたら、きっと怒り出すだろう。
 そんなことを言われて、なぜあなたは彼らと一緒に笑っていられるのか、と問い詰めるだろう。
 そう……レベルが低いのだ、僕の会社の同僚たちは。

 あ……と思って、寛樹はエマを抱き寄せた。
 乗り込もうとしていた老人が、降りてきた男に、突き飛ばされたのだ。老人は仰向けにひっくり返ったが、男は素知らぬ顔で、そのままホームを歩き始める。助け起こすどころか、すみませんのひと言も、振り返ることもしない。

 寛樹は男を睨みつけた。
 妙な雰囲気の男だった。ヤクザといった類ではない。見たところ、普通のサラリーマンだ。体格はかなりがっしりしていて、上背もある。
 しかし、歩き方が奇妙だった。酔っているのか、どこか身体の具合が悪いのか、一歩一歩を引きずるような感じで歩いている。

 エマをその場に残し、寛樹はその非常識な男のほうへ行こうとした。それに気づいたらしく、エマが寛樹の腕をつかんだ。だめだと言うように首を振りながら、力一杯引き戻す。そして、倒れた老人のほうを促すように見た。

 老人は倒れたままだった。動こうともしていない。
 夫人がしゃがみ込んで声を掛けていた。

 電車から若い男が降りてきて、老人の上に屈み込んだ。
「大丈夫ですか?」
 その後ろから、女性も降りてきて老人を覗き込んだ。

 と、そのとき、右手から「キャーッ!」という女性の悲鳴が上がった。ギョッとしてそちらを見て、寛樹は息を呑んだ。
「…………」
 老人を突き飛ばした男の向こうに、異様な光景が出現していた。
 ホームにいた男性の全身が炎に包まれていた──。
 まさか、こんなところで焼身自殺をする人間がいるとも思えない。なぜ、突然、男が燃えているのか、まるで想像がつかなかった。

 男は炎を消そうとして、ホームの床に倒れ、転がりはじめた。しかし、炎は消えようとしない。こちら側にいた乗客が2人、ジャケットを脱ぎながら転げ回っている男のほうへ駆けて行った。

 何が起こっているんだ?
 まったく判断ができなかった。

「救急車を──いや、駅員さんを呼んでくれ。担架が必要だ」
 電車を降りてきた若い男がそう叫んだ。
「呼んできます!」
 と、彼と一緒に電車を降りた女性が叫び、そのままホームを中央のほうへ走っていった。

「Hiroki!」
 しがみつくエマの手に力が入った。
 寛樹はエマにうなずき、老夫婦のそばへ寄った。寛樹が老婦人の左側にしゃがみ込むと、エマは右側に回った。

「安全な場所に移したほうがいいんじゃないですか?」
 若者に声を掛けると、彼は眉を寄せて老人の顔を覗き込む。
「脳震盪を起こしてる。下手に動かさないほうがいいかもしれない」
 若者はそう言うと、夫人のほうへ顔を上げた。
「おいくつですか、ご主人は」
 夫人は、おどおどとした声で「89です」と答えた。

 89歳……。
 かなり危険だということは歳を聞かなくても想像できたが、それを知ってさらに焦りが生まれた。

「あなたはお医者さんですか?」
 老人の首を支えるようにして後頭部を調べている若者に、寛樹は訊いた。若者は、小さく首を振った。
「いえ、病院に勤務していますが、医者ではありません」
 病院に勤務──少しだけほっとした。
「ちゃんと処置のできる人が来るまで、動かさないほうがいいと思います」
 若者は、ゆっくりとそう言った。自分に言い聞かせているようにも聞こえた。

 老人の手首を取り上げ、寛樹はおぼつかないながらも脈をみようと試みた。老人の手は細く、握っただけで折れそうに思えた。動脈がどこにあるのか、探ってみてもわからなかった。

「そうかもしれないが……」
 動かさないほうがいい、という若者の言葉に、寛樹はホームの向こうへ目をやりながら、つい呟いた。

 ぶすぶすとまだ炎を上げている男は、気を失ったものか、すでに転げ回ってはいなかった。2人の男が、懸命に火を消そうと脱いだ服を叩きつけている。

 動かさないほうがいいだろうということは寛樹にもわかるが、こんな危ない状態のホームに寝かせておいていいものなのか、それが不安だった。
 とにかく、この駅は今異常事態なのだ。

 何もしてあげられない自分が、なにか腹立たしかった。
 夫人の肩を抱きながら、エマが「ダイジョブデス。キットダイジョブデス」と言っている声が聞こえた。

 エマが自分の後ろを振り返る。
 そして顔を寛樹のほうへ向けてきた。

 エマ──と、彼女の名前を呼ぼうとしたそのとき、いきなり周囲が目映い光に輝いて見えた。
 そして、次の一瞬──。

 寛樹は灼けるような痛みを背中に浴びた。同時に、全身を硬い何かが強打した。寛樹の意識はそこで途切れ、彼の身体は一瞬で燃え尽きた。


     エマ   老人  降りて
きた男
 
     夫人  若い男   女性 
     男性 

   前の時刻 ……