前の時刻

  

 24:13 新橋-銀座駅
 額田雪絵
(ぬかた ゆきえ)


     なんてことだろう、と雪絵は思った。

 こんな時間に鶴見みたいな男と地下鉄に乗っているのも信じられなければ、変態ストーカーにつきまとわれているというのも、さらに信じられない。
 言うことなしだ。
 パーフェクトじゃないの。

 今日は、人生最悪の日かもしれない。

 この前のカラオケのあの男、なんて名前だったっけ。こんなことなら、キープしておくんだった。
 男の名前って、ほんとに覚えられない。
 どうしてだろう。

 なのに、鶴見七郎は覚えている。
 最悪じゃないの。
 信じられない。

 うまいこと、この鶴見を振りきる方法ってないものだろうか。
 タクシーに乗るとき、鶴見を路上に置いたまま発車させちゃうとか……だめだろうな。
 その辺歩いてる男の人に、この人、変質者ですって助けを求めるとか……無理だなあ。

 電車の車体が搖らぎ、駅に近づいたのがわかった。
 チラリと目をやったが、今度は、あの男も倒れなかった。男は、相変わらず雪絵を凝視している。

 何だって言うのよ!

 大声で怒鳴りたかった。
 その途端、車内に銀座駅の光が射し込み、電車は急激にスピードを落とす。

 いっそのこと……と、雪絵は思う。
 いっそ、あの変態と鶴見が格闘でも始めてくれればいい。取っ組み合いをしている間に、逃げ出してしまえばいいのだ。
 でも、逃げ腰になっているのは、むしろ鶴見のほうだった。
 どうして、お祖父ちゃんは、ケビン・コスナーみたいなボディガードを雇ってくれなかったのだろうか。もちろん自分がホイットニー・ヒューストンには似ても似つかないことは知ってるけれど……。

「降ります」
 シートから立ち上がった鶴見が雪絵に言った。
 なんだか、まるで面白くなかった。
「お願いします。降りてください」
 やれやれ、と雪絵は腰を上げた。
 この男も、逃げるとなったら、行動は早いらしい。開いているドアからホームへ降りて、なんとなくため息をついた。

 降りたばかりの電車に目をやると、車内を歩いている変態と目が合った。
「…………」
 雪絵の降りたドアへ歩きながら、顔だけはこちらに向けている。

 あわてて視線をそらせた。
 いったい――と、雪絵はホームを歩きながら考えた。
 あの男は、いつからあたしをつけ回しているんだろう? 鶴見に教えられるまで、ぜんぜん気がつかなかった。
 鶴見は、2時間ぐらい前にもあいつを見たと言った。

 2時間前――どこにいたんだっけ?
 よく覚えていなかった。
「…………」
 今日、あたしは、何をしてたんだろう?

 鶴見に腕をつかまれて、雪絵は彼を見返した。ぐいぐいと引っ張るようにして階段のほうへ歩かされている。
 まるで、これでは連行されているみたいじゃないか。
 むかついた。
 鶴見の腕を振りほどいた。

 ホームの向こうから、けっこうイケメンの男が早足で歩いてきた。ちょっと好みかも……と思ったが、男は雪絵には目もくれずすれ違った。
 その男を振り返った途端、雪絵は思わず叫び声を上げながら鶴見にしがみついた。

「…………」

 信じられないような光景がそこにあった。
 すれ違ったばかりの男が燃えていたのだ──。
 男は、全身を炎に包まれ「わあーーっ」と叫びながら、ホームの上を転げ回っている。

 なにがなんだかわからなかった。
 怖くて仕方がない。
 燃えながら転げ回っている男から目が離せなくなった。
 こんな恐ろしい光景を目の前で見せられたのは生まれて初めてだった。

 いきなり、雪絵は鶴見に抱きかかえられた。むりやりのようにして、鶴見は雪絵を燃えている男の前から引き剥がし、階段へ向かわせた。
 それで、雪絵は自分が鶴見の腕にしがみついていることに気がついた。

 鶴見にしがみつくなんて……と思ったが、あまりの怖さに彼を突き放すこともできない。
 抱きかかえられているのも厭なはずなのに、やめなさいよ、という言葉も出てこなかった。
 逆に、雪絵はしがみついている手に力を入れていた。

 背後のホームが騒然としている。
 当たり前だ。男が全身から炎を上げて燃えているのだ。
 しかし、前方でも騒ぎが起こっていた。

 階段の手前で、なにやら大きな青い箱を奪い合っている男たちがいる。その男たちの脇で、がポケットから銀色に光るものを取り出していた。

 頭の中はパニック状態だった。
 階段に辿り着き、雪絵の肩を抱いたまま鶴見が後ろを振り返った。雪絵も、そちらへ目をやった。

 ホームの中央では、やはり男が燃えていた。
 その向こうから、変態男が突っ立ったままこちらを睨みつけている。

「…………」

 なんのつもりなのか変態男が両手を大きく広げるような格好をした。ブルブルと全身を震わせ、眼を大きく見開いている。
 そして、あっ、と思ったとき――。

 変態の身体が大きく跳ねたように見えた。それと同時に鶴見が雪絵を抱きしめてきた。
 眼を開けていられないほどの真っ白な光が雪絵の視界を奪った。鶴見に抱きかかえられたまま雪絵は自分が宙を飛んでいるように感じた。そしてすさまじい勢いで何かに叩きつけられ……。
 雪絵は、意識を失った――。


 
     鶴見  変態
ストー
カー
  
イケメン
の男
       

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