前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 狩野亜希子
(かりの あきこ)


    「奥様に、和則ちゃんを確認していただきました」
 おお……と、兼田が声を漏らし、眼を閉じた。
「私たちも、ひとまず安心しました。ほんとうによかったと思います」

「……ありがとうございました」
 と、兼田が亜希子に頭を下げた。
「ただ、兼田さんにはもう少しだけご協力いただきたいのです」
「協力……」
 兼田は、亜希子と福屋を見比べた。

 ちょうどそのとき「2番線、お下がり下さい」と構内アナウンスが響き渡った。「浅草行が参ります。黄色い線の内側まで下がってお待ち下さい。2番線に浅草行が参ります」

 アナウンスを受けるようにして、亜希子は続けた。
「もうすぐ、あちらの2番線に電車が入ってきます。おそらく、その電車に犯人が乗っていると思われるのです」
「…………」
 ギクリとしたように、兼田は2番線のほうへ目を向けた。
「和則ちゃんは無事でしたが、犯人はおそらく、和則ちゃんが救出されたことをまだ知りません。ですから、犯人を捕らえるためには、そこにお持ちの」と、亜希子は兼田が抱えているクーラーバッグを指さした。「お金を予定通り、現れた犯人に手渡していただきたいのです」

 兼田は、再び亜希子と福屋を見比べた。そして、その目をクーラーバッグに落とした。
「渡す……んですか?」
 兼田がそう訊き返したとき、2番線に電車が入ってきた。
 亜希子の中に、いささかの焦りが生じたが、それをぐっと押さえる。

「もちろん、バッグに手を出した時点で、私たちは犯人を逮捕します。ですから、お金が奪われるご心配はありません。逆に、お金を渡すことができないと、犯人を捕らえることができないのです。なぜなら、私たちはまだ誰も犯人の顔を知らないからなんです」
「ああ……」
 どこか気が抜けたような表情でうなずく兼田から、亜希子は2番線のほうへ目をやった。

 浅草行の電車が、金属的な音を響かせながらゆっくりと停車する。
 いよいよだ……と、亜希子は背筋を伸ばした。
 兼田に背を向けるようにして、全身の力を1度抜いてみる。前方に見えるホームの全体を視野におさめながら、瞬時に次の体勢に移せるように神経を集中させた。
 シューッ、という音とともに浅草行のドアが開く。

 先頭車両から真っ先に降りてきたのは、一番向こうのドアからのカップルだった。あまり釣り合いのとれているカップルとは言えなかった。女性のほうは若いが、男性のほうはやや歳が上すぎる。格闘技でもやっているといった感じの体格のいい男だった。

 なるべく緊張を表に出さないように気をつけながら、ぐるりと視線を車両の前のほうへも向けてみる。
 先頭車両の一番前のドアからは、サラリーマン風の男がゆっくりとホームに降り立つのが見えた。
「…………」
 亜希子は、その男からすぐに目を離した。

 男の目があきらかにこちらへ──つまり兼田や亜希子たちのほうへ向けられていたからだ。しかも、男の挙動にはかなりの緊張が見て取れた。
 彼のすぐ後方にある階段には目もくれず、ことさらゆっくりとこちらへ足を運んでいるように思える。

 要注意だ……。

 と、そのとき、後方のドア付近で人の動きに変化が起こった。
 かなり図体の大きな男がドアから降りながら、乗り込もうとしていた老人を突き飛ばしたのだ。老人は、まるで木切れのようにホームに仰向けに倒れた。
 大きな男は、その老人には目もくれず、妙な足取りでこちらへ歩いてくる。

 あ……と、思った瞬間、福屋がその大男のほうへ向かっていった。引き止める間もなかった。
 あの人は、なにを考えているんだろう、いったい──。
 撃ち殺してやりたくなった。
 竹内と所轄の刑事2人は、どうやら福屋の動きに気づいていないようだった。

 ただ、老人を突き飛ばした大男の挙動が明らかに異常だった。
 ホームのほぼ中央に立ったまま、身体をガクガクと痙攣させている。しかし、その表情には苦痛といったものがまるでない。無表情に自分の前方を見つめているのだ。
 その大男の前に、あろうことか福屋はまっすぐに向かって行く。

「あっ」

 自分の見たものが信じられなかった。
 向かって行った福屋のほうへ、大男がグイッと右手を伸ばした。次の瞬間、その右手の先から、バーナーのように火炎が放射されたのだ。その火炎に包まれて、福屋の全身が一瞬で燃え上がった──。

「…………」
 思わず唾を呑み込んだ。
 とっさの判断ができなくなっていた。福屋はホームの上を大声を上げながら転げ回っている。
 その向こうで、竹内が2人の刑事たちに指示を与え、こちらへ向かってくるのが見えた。

 どうして、こちらへ?……一瞬、戸惑った。
 福屋が全身を火だるまにして転がり回っている。その福屋に火炎放射した大男は、依然としてホーム中央からこちらのほうを見つめているのだ。

「あっ」という兼田の声に、亜希子は驚いて後ろを振り返った。
 先ほど一番先頭のドアから下車したサラリーマン風の男が、兼田の持っているクーラーバッグに手を掛けていた──。

「な、何を……」
 と、兼田はバッグを奪われまいとしてしがみついている。
「はなせ!」と男が兼田を怒鳴りつけた。「息子の無事を考えろ!」
 その言葉と同時に、男は兼田の手からクーラーバッグを奪い取った。そのまま、渋谷行の電車へ向かおうとしている。

 とっさに、亜希子の身体が動いた。
 男の斜め前へ回り込み、渾身の力でその股間を蹴り上げる。
「ぐっ」と男がバッグを抱えたままホームに倒れ込んだ。

「お前……有馬じゃないか」
 と、兼田が男を見下ろしながら呟くように言った。

 亜希子は、倒れている男の肩を蹴って仰向けにひっくり返した。右手をつかみながら腰に挟んでいた手錠を取り出し、手首に掛ける。
 脇にやってきた竹内が、男の脇に手を差し込んで引き起こした。竹内は、よし、と言うように亜希子にうなずいた。

 ふう、と息を吐き出しながら、亜希子は男のもう一方の手に手錠を掛けた。その瞬間だった──。

 地下鉄銀座駅のホーム全体に閃光が走った。
 同時に、凄まじいほどの爆風が亜希子とその周囲を襲い、すべてのものが一瞬にして蒸発した。


 
     兼田   福屋   女性 
     男性  サラリー
マン風の
図体の
大きな男
     老人   竹内 

   前の時刻 ……