![]() | 24:13 新橋-銀座駅 |
「根本君ってさ」 薫ちゃんが、そのまん丸な眼で見上げてくる。 「根本君って、自分の部屋に帰って寝るって、あるの?」 さすがに、根本も苦笑した。 「あるよ、そりゃ。ひと月に3日ぐらいは帰って寝てる」 「ひと月に、3日?」 さらに眼をまん丸くして、薫ちゃんが声を上げた。ほんとに、かわいいね、この子。 「アパートだよね、根本君って」と、横から万里子が口を出した。「家賃、もったいなくない?」 うんうん、と根本はうなずいた。 「オレもそう思う。実質は10分の1しか使ってないんだから、家賃も10分の1にしてもらえればいいんだけどな」 「ルームメイトかなんか見つけて、住むっていうのは?」と、万里子は隣の薫ちゃんに目をやった。「薫ちゃんとかさ」 ひっ……と、薫ちゃんが蛙でも踏んづけたような声を上げた。 根本が楽しくなって笑うと、薫ちゃんはほとんど万里子を突き飛ばしながら、ひきつけを起こしたような声で笑い出す。 「なに言ってんのよぉ。びっくりするなあ。なんであたしなのよ、もう」 万里子は冷やかすように薫ちゃんに笑いかけ、その目を根本のほうへ寄越した。 「だって、薫ちゃんだって一人暮らしなんだし、ちょうどいいじゃない。ね? 根本君」 ちょっと、ちょっと、と万里子の腕をつかんで振り回している薫ちゃんを眺めながら、根本は大きくうなずいてみせた。 「願ってもないね。膝枕付きだったら、さらに嬉しい」 その言葉に、万里子はニタッと笑い、薫ちゃんのほうは耳の付け根まで真っ赤に染めながら万里子の腕をひっぱたいていた。 ひょっとして……ってこと、あるのかね、これ。 根本も口許に笑いを残したまま、恥ずかしがっている薫ちゃんを眺めた。 やたらに今日は、この薫ちゃんが可愛らしく見える。これは、疲れがピークに達していて、頭がほとんどレム睡眠状態に近いからなのか? あるいは──。 と、その時、目の前の窓の向こうを流れる壁が、黒から白へ変化した。 銀座駅に到着したらしい。 なんとなく、車内を見渡した。 まだ電車が完全に停まっていないうちから、シートを立ってドアへ向かう客たちがいる。 そんなに時間が惜しいもんかね、と思いながら視線を前へ戻した。電車が停まりドアが開くと、我先に降りていく。せいぜい数秒の差だ。乗り換えの電車がある人も多いのだろうが、数秒の違いで乗り遅れるなんてことは運行ダイヤからしても、そうあるもんじゃない。 まあ、みなさん、元気がいいってことですね、たぶん。 「そう言えば」小早川が隣から根本を覗き込んできた。「根本の浮いた話って聞いたことないな」 あはは、と根本は笑った。こういう問いかけには、笑うしか対抗手段もない。 「聞いたことなんかあるわけないだろ。そもそも、影も形もないんだからさ」 「ずっとか?」 「彼女作ってるような時間を、誰かが回してくれるといいけどな」 「なるほどね」 何に納得してくれたのかわからないが、小早川は、ふんふん、とうなずいた。 「女が嫌いってことじゃないんでしょ?」 と、万里子がニタニタ笑ったままで言う。 「女は好きだよ。べつに公言することもないだろうけど」 「理想が高いんだよね、根本君の場合、きっと」 と、薫ちゃんが、まだ上気したような顔で言った。それに、小早川の旦那が、首を振る。 「もう、理想云々を言ってる場合じゃないだろう。男も30超えてきたら」 「ひどいなあ」と、薫ちゃんのほうが小早川の言葉に憤慨する。「年齢なんて関係ないじゃないですか。根本君みたいな、いい男だったら」 その薫ちゃんの言葉に、案の定、わあ、と万里子が声を上げた。 「白状した。薫ちゃんが白状した」 え? と、その薫ちゃんは、また眼を丸くして万里子を見返す。 「やっぱりもう、薫ちゃん、根本君の部屋に押しかけるしかないわよ」 「え、え、え──」と、あわてふためく薫ちゃんが、また可愛らしい。「なんで、そうなるのよ。万里っぺ、なんでそんなことばっかり、根本君だって迷惑じゃん」 「まあまあまあ」 と、万里子は笑いながら薫ちゃんを押さえた。 どうやら、どうしても万里子は薫ちゃんとオレをひっつけたいらしい。 「迷惑じゃないよね、根本君」 上目遣いに、訊いてくる。 迷惑じゃない、と言いかけたとき「キャーッ!」という女性の悲鳴が響き渡った。とっさに後ろを振り返る──窓越しのホームに、根本は意外なものを見た。 男が、全身を火だるまにしてホームの中央で暴れていたのだ。 何が起こっているのか判断がつかなかったが、根本は反射的に左右のドアを見比べた。右側のドアのほうが近いが、ドア付近のホームには人が群れていた。だから、そのまま根本は左側のドアへ進んだ。 肩から提げていたバッグを探り、カメラを取り出しながらホームへ降りる。炎を吹き出し続けている男に向かって、続けざまにシャッターを切った。 男はホームの床を転げ回っていた。その男に向かって、ややヤクザっぽい雰囲気の男2人が上着を脱ぎながら駆け寄っていく。 刑事──? 転げ回る男の火を消そうと上着を叩きつけている2人の男を見て、根本は、なんとなくそう思った。思いながらも、シャッターを切り続ける。 そう言えば……と、根本はホームを見渡した。私服の刑事を思わせる雰囲気の男たちが、あちこちにいる。その全員が、ホームを転げ回りながら身体から火を噴き出させ続けている男を凝視していた。 いや……。 根本は、3メートルほど斜め前方に立っている男を見つめた。かなりの巨体だった。そいつだけは、転げ回っている男のほうを見ていない。巨体の男は、起こっている異常事態にはほとんど背を向けるようにして、ホーム左手の階段のほうへ目をやっていた。 「根本、なんなんだ、これは!」 いつの間にか横に来ていた小早川が、叫ぶように言った。彼もまた、火だるまの男のほうへカメラのレンズを向けている。 「…………」 根本は、巨体の男が気になっていた。 というよりも、この場全体に異様な雰囲気が張りつめているのを感じる。 何かが妙だ──。 階段に寄ったあたりでも、奇妙なことが起こっていた。男2人と女1人が、青い大きなバッグを挟んで、取り合いのようなことをやっている。その次の瞬間、なんと女が1人の男の股間を蹴り上げ、つんのめった男の腕に手錠をかけたのだ。 根本は、そちらへカメラを向け、シャッターを切った──そのとき、根本は自分の身体が浮き上がったように感じた。 ただ、その感覚を味わうような時間は根本にはなかった。 根本の身体は、その時すでに蒸発し、消失していた──。 |
![]() | 薫ちゃん | ![]() | 万里子 | ![]() | 小早川 | |
![]() | 男 | ![]() | 斜め前方 に立って いる男 |
![]() | 女 | |
![]() | つんの めった男 |