23:56 浅草駅 深沢英和


              やはり辞めるべきだろうか、と英和は考えていた。
 こんな状態では仕事にならない。こうやって座っている間も、この身体
の中では病気が進行し続けているのだ。
 
 病気……。
 
 英和は、ゆっくりと車内を見渡した。なんだか、すべてのものが遠くに
見える。見るもの聞くものから、現実感が消失してしまったように思える。
 斜め前の座席で青いクーラーバッグを膝に抱えている男。彼のことは、
つい20分前に説明を受けた。どんな説明だったのか、思い出すのに苦労
する。神田……いや、鎌田だっただろうか? くり返し聞かされた名前も、
思い出せない。
 病気なのだろうか? 忙しすぎて病院に行く暇もない。ぼんやりしてい
て、上司や同僚から何度も叱られ怒鳴りつけられた。仕事を辞めるべきな
のかもしれない。
 
 今朝、脇の下にまた新しい肉腫を発見した。内股に2ヶ所、左の脇腹に
一つ、そして脇の下……。肉腫は次第に大きくなっている。毎日少しずつ、
成長を続けている。
 魚の顔を持った肉のかたまり――。
 
 肉腫の中央からやや上のあたりに、4つの穴が開いている。上のほうに
ある2つの穴は大きく、下にある2つは小さくて中央に寄っている。上の
2つは目玉に見え、下の2つは鼻の穴に見える。
 その4つの穴の下に「へ」の字を描いたような亀裂が走っている。どう
見ても口だ。
 正面から見た醜い魚の頭部……どうして、こんな肉腫が出現したのだろ
う?
 
 病気だろうか? だとしたら、病名は何というのだ?
 
 痛みはない。体調に変化もない。少し食欲が増え、性欲も増えた。性欲
はあっても、こんな肉腫を抱えていては真由美を抱くこともできない。仕
事が忙しく、セックスをしている時間もないから、真由美はべつに文句も
言わない。トイレに入り、自分の手で処理する。今日も署内のトイレで3
度やった。気づいている同僚もいるかもしれない。
 
 身体に不調はないが、生活に現実感がなくなった。食事をするときとマ
スターベーションのとき以外、なにをしても実感がない。なにもかも遠く
にいってしまったような気がする。みんな、この《できもの》のせいだ。
 
 突然、電車のドアが閉まり、英和はそのぼんやりとした目を上げた。
 座席に、がくん、と衝撃が伝わり、電車が走り始めた。
 
 はて、オレは何のために、この電車に乗っているんだろう?

 
    クーラーバッグの男