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「停車中の電車は、57分発渋谷行です」
アナウンスに、兼田はギクリとして顔を上げた。
思わず、膝のクーラーバッグを抱えた手に力がはいる。二度、三度、唾
を飲み込み、大きく息を吸い込んだ。
くそお……。
「日本橋、銀座、赤坂見附方面、渋谷まで参ります。発車まで1分ほどお
待ちください」
発車まで……兼田は腕の時計を見た。11時56分。
大丈夫だ。落ち着け。ちゃんとやれる。なにもかも、うまくいく。
プラスチック製の青いクーラーバッグの角に掌をこすりつけた。手が汗
でヌルヌルしている。
くそお。
どうして連中はウチにクーラーバッグがあることを知っていたのだろう。
ふいに、そんなことを考えた。
どうして普通のカバンじゃいけないんだ。だいたい、クーラーバッグと
いうのは手で持ち運ぶようなものではない。これはキャンプ用に買ったの
だ。車に積んで、蓼科へ二度、房総と大洗へ一度ずつ行った。高原や砂浜
でこいつを開け、砕いた氷の間からビールの缶を取り出す。冷えたビール
を、ごくごくと喉に流し込む。もちろん、子供たちはビールじゃない。
「クーラーバッグにカネを入れて持ってこい」
あのダミ声の男は、電話でそう言った。
なぜ、クーラーバッグなのだろう?
2000万だ。100万の束が20個入っている。
金額は大きいが、さほどのカサはない。札束20個にクーラーバッグは
大きすぎる。
なぜ、普通のバッグじゃいけないんだ?
兼田は車内を見回した。
斜め前の二人連れがうるさい。なにがそんなにおかしいんだ。酔っぱら
いめ。他の客のことを考えろ。片方は外したネクタイをバンダナの代わり
にして頭に巻きつけている。もう片方は膝の上のブリーフケースを太鼓の
ようにパタパタ叩き続けている。
うるさい。笑うのをやめろ。
「渋谷行の電車、まもなく発車いたします。ご乗車になりまして、お待ち
ください」
ホームにアナウンスが流れた。
兼田は、二人連れの酔っぱらいからホームへ目を移した。ホーム後方の
階段を、男の子の手を引いた婦人が駆け下りてきた。そのままホームを走
り、母と子は、最後尾のドアから飛び込むようにして車両に乗り込んでき
た。
かなり前から壁際のベンチに腰を下ろしていた勤め人風の男が一人、ゆ
っくりとホームを横切って乗り込んでくる。その男の顔を、兼田は知って
いた。
「1番線、渋谷行発車です。ドア、閉まります」
くそお……。
発車のチャイムを聞きながら、兼田はまたクーラーバッグの角をにぎり
しめた。
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