電車が動き始めたとたん、兼田は、なんだか自分が取り返しのつかない ことをしてしまったような気持ちに襲われた。 本当に、この電車でよかったのだろうか? 間違って、別の車両に乗っ てしまったのではないか? 意味もなく、車内を見渡した。 後頭部が、やけに冷たく感じられる。眼には周囲のものがすべて映って いるのに、目隠しをされているような気分だった。 和則は、銀座にいるのだろうか? 銀座で、私を待ってくれているのだ ろうか? あのダミ声は、銀座に来いとしか言わなかった。23時57分発の渋谷 行の最後尾車両に乗って、銀座で降りろとしか言わなかった。 ああ、どこにでも行ってやる。どこだって、行ってやるさ。銀座に行け ばいいんだろう。2000万を持って行けばいいんだろう。 クーラーバッグを押さえつける掌が、ヌルヌルと汗をかいている。 息苦しかった。苦しくて仕方がない。 なぜ、地下鉄に乗らなきゃいけないんだ。 兼田はクーラーバッグを膝に押しつけながら思った。 どうして、クルマで行ってはいけないんだ? なにも地下鉄に乗せるこ とはないじゃないか。地下鉄は嫌いなのだ。クルマで銀座へ行って、地下 鉄のホームへ降りればいい。カネはホームに持って来いと言うんだろう? だったら、地下鉄に乗る必要はないじゃないか。 最後尾車両……? 兼田は、また車内を見回した。 どうして最後尾なんだ? 電話で聞かされた和則の声が耳の奥によみがえった。 「パパ、はやくきてね」 あの子は、自分が何をされているのか理解していないのだ。まるで、友 だちの家に迎えに来てくれと言っているような調子だった。 それが唯一の救いだ。あの子は怖がっていない。 「おじちゃんも、おばちゃんも、おもしろいよ。テレビみてるの。アイス クリームたべた」 おじちゃん、おばちゃん……犯人は、複数だ。一人じゃない。少なくと も、男と女が組んでいる。2000万は、その意味かもしれない。一人1 000万ずつ。 和則は人なつっこい。幼稚園に上がる前からそうだった。誰にでも、す ぐになつく。だから、みんなに可愛がられている。おとなは、みんな自分 を可愛がってくれるものだと、あの子はそう信じているのだ。 しかし、疑え、などと、どうして教えられる? 知らない人は、すべて悪い人だなどと、あの子にどうして言える? くそお。はやく持って行ってくれ。 兼田は、青いクーラーバッグから目を上げた。 窓の外を、黒い壁が流れている。間断のない走行音が、耳をふさいでい る。時折、キイーッという金属のこすれるような音が走行音に混じる。 耐えられない。 車内アナウンスが、次は田原町だと告げた。 早く着いてくれ。田原町など、停まらなくていい。このまま、まっすぐ 銀座へ行ってくれ。 |