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兼田はふと、商工会の理事長に退院の祝い金を送るのを忘れていたこと
に気づいた。
聞いたところでは、あの理事長の病気は胃ガンだそうだし、退院といっ
てもおそらく半年か一年後には……という話だったが、まあ、だとしても
祝い金を送らないというわけにはいくまい。
なにをバカなことを考えているんだ。
兼田は、下唇を思い切り噛みしめた。
そんなこと、どうでもいいじゃないか。どうして、こんなときに、祝い
金のことなど思い出す必要がある? そういうのは、明日にでも、事務所
の女の子に言って送らせればすむことだ。
電車が田原町に着く。
ドアが開くと、兼田の正面から二人の客が乗り込んできた。
最初に乗り込んできた男の顔を見て、兼田は反射的に膝のクーラーバッ
グを押さえた手に力を入れた。あまり人相のよくない男だったからだ。服
装も、どことなくだらしない感じで、さほどまっとうな仕事をやっている
人間には見えなかった。
しかし、男は兼田には目もくれず、車内をぐるりと一瞥すると、後ろか
ら乗り込んできた女のほうを振り返り、車両の前方へ歩きはじめた。
女のほうは、普通の主婦という印象だが、どこか一本抜いて崩したよう
な感じにも見える。兼田の前を通ったとき、やけに安っぽい香水の匂いが
鼻をついた。
男と女は、斜め向こうの座席に並んで腰を下ろした。
「警察の人だよね!」
突然、右手から女の声が聞こえ、兼田はギクリとしてそちらへ顔を向け
た。
緊張した表情の刑事と目があった。
刑事は、無視しろ、というように兼田に目で合図を送ってきた。
兼田は、呼吸を抑えながら、前に目を返した。
「渋谷行、発車します。ドアを閉めます」
アナウンスと同時にドアが閉まり、電車が動きはじめた。
兼田には、自分をどうしたらいいのかわからなかった。
座っているだけの自分が、惨めに思えて仕方なかった。
くそお。誰なんだ?
誰が、こんなことを……。
時計に目をやる。
12時が近かった。あと、1分そこそこで日付が変わる。
握った拳で額を拭うと、手の甲が汗で濡れた。
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