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 23:57 浅草駅-田原町駅
 沖崎 勲
(おきざき いさお)


     あえて、爪噛み女の正面に座ることにした。
 それとなく沖崎が目をやると、女のほうもチラリとこちらへ視線を寄越した。
 
 腕の時計を確かめる。11時57分。定刻の発車だ。予定通りなら、銀座到着は12時13分になる。あと約16分。すでに、別班は銀座を固めているはずだ。
 
 沖崎は、深く息を吸い込んで車内後方へ目をやった。
 
 乗客数は、沖崎を含んで8人。この時点で犯人が同乗しているかどうかは確定できないが、現在のところ注意すべきなのは、この正面の女と、あの勤め人風の二人組だ。最後に乗り込んできた母子は、事件にはまず無関係と考えて間違いあるまい。
 
 沖崎は、こういう〈燃えている犯罪〉にあたるのが好きだった。
 燃えている犯罪とは、現在進行中の事件をさしていう。すでに行なわれた犯罪の痕跡を追って捜査を進めるのではなく、いま現実に進行している犯罪の捜査にあたるのが好きなのだ。
 ほんの小さな失敗も許されない。神経は、常に尖らせておかなければならない。眼を開き、耳をすまし、悪党の匂いをかぐ。
 
 むろん、仮にも好きだなどと口に出して言うことはできない。犯罪は、行なわれなければ、それにこしたことはない。
 だが、現実に犯罪は起こる。その悪党どもの所業を、首根っこ押さえて食い止めるのだ。その瞬間の興奮――。
 
 何にも代え難い。
 
 ふと、正面に目をやった。
 沖崎を見つめていた女が、慌てたように視線を中吊り広告のほうへそらせた。
「…………」
 なんだろう、この女。やはり、どこか妙だ。
 だが、この女が一枚噛んでいるのだとすれば、もっと兼田勝彦を気にしていてよさそうなものだ。ところが、女の興味は兼田よりも俺のほうに向けられているような気がする。
 
 なんだろう?

 つられたように、沖崎も女が見ている吊り広告に目をやった。雑誌の広告だった。大げさな見出しがゴチャゴチャと並んでいた。
 
「お待たせいたしました。銀座線、ご利用いただきましてありがとうございます。この電車は、上野、日本橋、銀座、赤坂見附方面、渋谷行です。お出口は、途中、末広町まで左側です。まもなく田原町、田原町です」
 
 突然、女が沖崎に目を返してきた。真正面から沖崎を見つめている。
 沖崎は、眉を寄せて女を見た。
 その瞬間、女は、まるで同意を求めるような顔つきで沖崎にうなずいた。


 
   爪噛み女 兼田勝彦

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