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 23:58 田原町駅-稲荷町
 日下部敏郎
(くさかべ としろう)


     問いかけるような眼差しを、その女性から向けられて、日下部は一瞬たじろいだ。
 
 見れば見るほど、浜子に似ていた。
 生き写しだと言ってもいい。髪型はだらしなく男のようで、まるで書生かなにかのように首の後ろで切り揃えられているが、そのくっきりと見開かれた眼、細く弓形の眉、すっと通った鼻梁、小さく薄い唇――すべてが浜子そのままだった。
 
 つい見とれていると、彼女は、口げんかをしていたの脇をすり抜けるようにして、日下部に近づいてきた。
「なんですか?」
 女は、妙に怒ったような口調で日下部に言った。
 日下部は、慌てて首を振り、女に一礼した。
 
「いや、これはとんだ失礼をいたしました。あなたのお顔が、私の知っている人によく似ていらしたものですから」
 言うと、女が、ぷっ、と吹き出した。
「なに、それ?」
 
 日下部は、はあ? と、自分の周りを見回しながら女に訊き返した。
「それ」というのが、なにを示したものなのかよく理解できなかったからだ。
「ナンパするにしたって、もうちょっとマシなこと言えない?」
 
 日下部は、眼を瞬いた。
 女の言った言葉の意味が、まったく理解できなかった。発音は日本語に違いないと思うのだが、とても自分の話している国語と同じもののようには思えない。
 
「その……なにをおっしゃられているのか、私には――」
 そのとき、とてつもない轟音が響いてきて、日下部はギョッとして後ろを振り返った。
 
 まるで、荷車が百台も並んで向かってくるような音だった。
 そして、視線の先の洞穴の口から現われたものを見て、日下部はさらに仰天した。
 
「こ、これは……」
 
 すさまじい勢いで、銀色に光る箱形の物体が、日下部たちの立っているこの通路に侵入してきたのである。
 激しい金属的な音をうならせながら、その物体は次第に速度をゆるめ、やがて日下部の前に停止した。続いて、ピンポンピンポン、と奇妙な音が通路全体に鳴り響き、銀色の物体の横に配された引き戸が、シュウ、という音とともに開かれた。日下部には、その引き戸を開けた者の手が、まったく見えなかった。
 
「田原町です。ご乗車ありがとうございます。渋谷行です」
 再び、あの声が、通路に響きわたる。
 
 すると、完全に言葉を失っている日下部の脇を通って、口げんかをしていた男女がその引き戸の中へ入っていった。続いて、浜子に似た女性も、そこへ乗り込んでいく。よく見ると、ずらりと並んだガラス窓の向こうに、何人もの人々が長椅子に腰掛けているのだ。
「…………」
 日下部は、わけもわからず、ただ呆然としてその有様を眺めていた。
 口げんかの男女も、浜子に似た女性も、そして、箱の中の人々も、誰もがあたりまえのように行動していた。
 
「渋谷行、発車します。ドアを閉めます」
 
 天からの声がそう告げ、日下部は、慌てて皆の入った口からその箱に飛び込んだ。なにか、そうしなければいけないような雰囲気が日下部の気持ちを逸らせたからだ。
 飛び込むと同時に、日下部の後ろで引き戸が、シュウ、と音を立てて閉じた。今度も、それを閉める者の手は見えなかった。
 そして、これは、半ば予期していたことだが、日下部を乗せた箱全体が細かい振動とともに動き出した。
 
 どうやら、汽車の一種であるらしい。
 日下部は、そう結論した。
 銀の箱は、次第に速度を増し、真っ暗な隧道の中を疾駆しはじめた。
 
 日下部は、箱の内部を見渡した。
 浜子に似た女は、最後尾の長椅子の端に腰を下ろして日下部のほうを見ていた。
 日下部は、彼女のほうへ歩いた。
 
「座れば?」
 
 浜子に似た女が言い、日下部は、失礼、と彼女の隣に腰を下ろした。柔らかな、バネの効いた座席だった。
 目を上げると、正面に、若い母親男の子が座っていた。男の子は、母親にもたれかかるようにして、安らかに眠っているようだった。

 
    浜子に 
似た女性
口論して
いた男
口論して
いた女
   若い母親 男の子

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