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 23:58 田原町駅-稲荷町
 榎本ひとみ
(えのもと ひとみ)


     誰だっただろう……。
 
 ひとみは、を見ながら思った。
 どこかで会った人だろうか? 男のほうは、ひとみを知っているようだった。いや、知っているのかどうかはわからないが、そのような表情でこちらを見つめている。
 
 ひとみは、とりあえず男のほうへ足を向けた。なにか事情のありそうなカップルの脇を回って、自分を見つめ続けている男に声をかけた。
 
「なんですか?」
 
 男は、突然、慌てたようにドキマギと首を振り、深くお辞儀をして寄越した。
「いや、これはとんだ失礼をいたしました。あなたのお顔が、私の知っている人によく似ていらしたものですから」
 
 その男の、もって回ったような言い方に、ひとみは思わず吹き出した。
「なに、それ?」
 男は、なおさらドギマギとして、自分の足下へ視線を落とした。
「ナンパするにしたって、もうちょっとマシなこと言えない?」
 男が、ポカンとした表情でひとみを見返した。
 
 ひとみにしても、男からナンパされているようには感じていなかった。
 なんだか、おかしな人だ。酔っぱらっているんだろうか?
 やっぱりどこかであったことがあるような気がする、とひとみは思った。男は、自分の知っている人に似ていると言う。
 誰なんだろう?
 
「その」と、男が首を振りながら言った。「なにをおっしゃられているのか、私には――」
 
 電車が入ってきて、男が驚いたように後ろを振り返った。
 男は、自分の髪を掻き上げ、まるで地下鉄を見るのは生まれてはじめて
だというように、その入線してきた車体を凝視している。
 
 ほんとに、変な人だ。
 ひとみは、笑いを抑えながら男を見ていた。
 到着した電車のドアが開き、横にいたが乗り込んだ。それに続いてひとみもドアをくぐった。
 いちばん後ろの端が空いていて、ひとみはそこへ席を取った。正面には、親子連れが乗っていた。なにか不安そうな表情の母親の腕に身体を預けるようにして、男の子が眠っている。
 
 気になって、窓を透かしてみると、あの男はポカンとした顔で開いたドアの前に立っていた。発車する、というアナウンスを聞いて、慌てたように乗り込んできた。
 その男の様子を見て、ひとみはまた笑った。
 どこかアブナイ人のように見えるが、そのくせ、にくめない男だと思った。
 
 男はしばらく、キョロキョロと車内を見回していたが、電車が動き始めると、ひとみのほうへやってきた。
 前に立った男に、ひとみは笑いながら言った。
 
「すわれば?」
 
 失礼、と声をかけて、男はひとみの横へ腰を下ろした。
 そのとき、ひとみの中に不思議な感覚が起こった。
 それは、どこか安心感を与えてくれるような感覚だった。なんとなく、子供のころ、父親の膝に座ったときの感じに似ている、とひとみは思った。

 
    こちらを
見ている
横にいた
横にいた
   不安げな
母親
寝ている
男の子

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