なにやってんだ、早くドアを閉めろ!
矢萩は、ほとんど人気のないホームを眺めながら思った。さっさとドアを閉めて、電車を走らせろ。いつまで停まってるつもりだ、このうすのろめ。
とにかく、あとひと駅だ。次が上野。上野に着けば、こっちのもんだ。
停車時間が、矢萩にはやたらに長く感じた。
ピンポンピンポンと発車のチャイムが鳴り、シュウという音とともにようやくドアが閉じると、矢萩は思わずため息をついた。
その拍子に、加奈子と目があった。
「なに? どうかしたの?」
いや、べつに……と、矢萩は小さく首を振った。
「なんか、あたし、へんなこと言った?」
「そうじゃない。ちょっと考え事をしてただけだ」
電車が動き出した振動を尻の下に感じながら、矢萩は顔を正面に戻した。
一瞬、こちらを見つめているデカと目があった。矢萩は、小さく息を止めながら床に視線を落とした。
くそ……まだ、見てやがる。
いったい、なんのつもりだ。なんにも、やってないぞ。オレは、なんにもしてないんだからな。
もっと速く走れ。早く上野に着けよ、この野郎。
いや――。
と、矢萩は奥歯を噛みしめた。
このデカも、上野で降りたら……。
いやな気分だった。信じられない。オレは、女房を寝取られたんだ。つまり、被害者だ。悪いのは加奈子の亭主で、オレじゃない。だから、オレはやましいことなんか、なにもないんだ。
なのに、どうしてこんな気分にならなきゃならない。
「ねえ、怒ってるの?」
加奈子が覗き込むようにして言った。
「怒る? べつに」
「まあ、怒るのも無理ないわね。あなたにしてみたら、完全にコケにされたってことだろうし」
「コケ?」
矢萩は、思わず加奈子を見返した。
加奈子は、相変わらずの仏頂面をして首をすくめた。
「あたしにしたって同じことよ。あたしは、あなたの奥さんにコケにされたわけだし。あなたはウチの亭主にコケにされた」
「……なにが言いたい」
「なにもかにもないでしょ。これだけバカにされて、絞め殺してやりたいわよ」
絞め殺してやりたい、という加奈子の言葉に、矢萩はデカのほうに目をやりそうになった。
めったなことを言うんじゃない。奴らは、そういう言葉を冗談には訊いてくれないんだ。
「どうするつもりなのよ」
加奈子が、矢萩をにらみつけた。
「どうするって、なんだよ」
「きまってるじゃないの。これから。あんたのウチに行くんでしょ? そこに、奥さんとウチの亭主がいるわけでしょ? まさか、二人がイチャイチャしてるのを見物に行くんじゃないでしょうが」
ふうん……と、矢萩は加奈子を見つめた。
ようやく、この女も、オレと自分が同じ被害者だということがわかってきたらしい。
「笑われてんのよ」と、加奈子が続けた。「奥さんとウチの亭主二人して、あたしたちのことを笑ってんのよ」
「…………」
「ウチの亭主のことだから、ぜったい奥さんに訊いてるわね。旦那とどっちがいいかって」
「どっち――」
矢萩は眉を寄せた。
「奥さんの答えはきまってる。もちろん、亭主よりずっといいって」
「…………」
口を開こうとしたとき、車内アナウンスが上野到着を告げた。
矢萩は、言いかけた言葉を危うく呑み込んだ。
じゃあ、オレたちも試してみようじゃないか。どっちがいいか――。
それを言うのは、まだ、少し早い。
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