首をねじるようにして、矢萩はホームに目をやっていた。
加奈子の頭越しに、ただじっと車窓の向こうを見つめている。
どうかしたのだろうか、と加奈子はまた思った。
突然、矢萩の気持ちが、どこか別のところに行ってしまったように思える。なぜだろう?
電車のドアが閉じると、矢萩は、憤慨したように鼻をひとつ鳴らした。
「なに? どうかしたの?」
ようやく顔を戻した矢萩と目が合い、加奈子は訊いた。
「いや、べつに」
矢萩の答えは素っ気ない。
「なんか、あたし、へんなこと言った?」
「そうじゃない。ちょっと考え事をしてただけだ」
お前には関係ない、といった口調で言い、矢萩は加奈子から目をそらせ、前を向いた。視線を電車の床に据えたまま、黙っている。
なにを考えているのだろう、と加奈子は少し不安になった。
さっきまでは加奈子に身体を押しつけるようにして、みえみえの態度をとっていたくせに、それが突然消えてしまった。まるで、加奈子が横にいることすら忘れてしまったようにも思える。
あたしの言葉が原因でないとするなら、なにが矢萩を寡黙にしてしまったのだろう。
この男は、さっきずっとホームを見つめていた。誰か、いたのだろうか?
加奈子は、意味もなく車内に視線を巡らせた。
稲荷町から乗って来たらしい男が、車輛のいちばん後ろに立っていた。赤と緑の派手なジャケットを着込んでいる。どこかの芸人だろうか、と加奈子は思った。
矢萩に目を返した。
彼はまだ床を見つめている。その顔を覗き込んだ。
「ねえ、怒ってるの?」
訊くと、矢萩は、ギクリとしたような表情で首を振った。
「怒る? べつに」
やれるだけ、やってみよう。と、加奈子は思った。
うまくいくかどうかわからなくなったが、とにかく、この男を焚きつけてみることだ。
「まあ、怒るのも無理ないわね。あなたにしてみたら、完全にコケにされたってことだろうし」
「コケ?」
矢萩が、加奈子に顔を向けてきた。
やっぱり、と加奈子はお腹の中でうなずいた。こういう言葉が、この男には効く。
「あたしにしたって同じことよ。あたしは、あなたの奥さんにコケにされたわけだし。あなたはウチの亭主にコケにされた」
加奈子は、自分でもしつこいと思うぐらい「コケ」を連発した。
怒らせることだ。この男を怒らせて、その怒りをウチの亭主に向けさせるのだ。瑞枝さんが、なにを考えているのかはわからないが、彼女のことはその後の問題だ。
「なにが言いたい」
探るような口調で、矢萩が言った。
「なにもかにもないでしょ。これだけバカにされて、絞め殺してやりたいわよ」
「…………」
矢萩の眼が微妙に揺れたのを、加奈子は見逃さなかった。
手応えがあった。そう、こういう馬鹿な男には、こちらからヒントを出してやることも必要なのだ。
追い打ちをかけるように、加奈子はたたみかけた。
「どうするつもりなのよ」
「どうするって、なんだよ」
「きまってるじゃないの。これから。あんたのウチに行くんでしょ? そこに、奥さんとウチの亭主がいるわけでしょ? まさか、二人がイチャイチャしてるのを見物に行くんじゃないでしょうが」
矢萩の顔に、薄い笑いのようなものがよぎった。
その笑いは、瞬間的に無表情な眼の奧へしまい込まれたが、加奈子はその一瞬の笑いがぞっとするような冷たさを持っているのを感じた。
もう一押しだろう。もう少しで、この男は切れる。
むろん、今ここで逆上されては困るが、この火種は消さないようにしておかなければならない。
「笑われてんのよ。奥さんとウチの亭主二人して、あたしたちのことを笑ってんのよ。ウチの亭主のことだから、ぜったい奥さんに訊いてるわね。旦那とどっちがいいかって」
「どっち――」
矢萩が眉間に皺を寄せた。
加奈子は、涼しい表情を作ってうなずいた。
「奥さんの答えはきまってる。もちろん、亭主よりずっといいって」
矢萩が、口を開いた。
しかし、その口からは言葉が出てこなかった。
アナウンスが「まもなく上野、上野でございます」と告げる。
加奈子は、矢萩の反応に満足した。
これなら、うまくいくかもしれない。
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