それにしても……。
と、芳賀は考えた。
それにしても、誰があのカネを落としたのだろう。
いや、トイレの中に紙袋に入った1200万を落とすというのも妙だ。落とし物ではなく、あれは忘れ物なのだろう。
しかし……忘れ物にしても、いささか奇妙だった。
あの紙袋、大便所の便器の後ろに突っ込むようにして置かれていたのである。靴を買ったときに入れてくれるような小型の白い紙袋で、側面にはデザイン化されたアルファベットの店の名前が印刷されている。その袋の口が、提げ紐を内側へ落とし込むようにしてテープで閉じられ、さらに二重に折り畳んでつぶされていた。
芳賀にしても、最初、そんなところに紙袋が突っ込んであるとは、まるで気がつかなかったのだ。モップを便器の後ろへ突っ込んで、ようやくその存在に気づいたのである。
あれは、そこに置いたというよりも、むしろ隠してあったというほうがぴったりする。
隠して……。
芳賀は、なんとなく首の後ろを撫でた。
ふと、右のほうへ目をやってギクリとした。いつの間に現れたのか、どこか薄汚い服装の男が、壁際に立っていた。後ろを通っていったのだろうが、まるでそんな気配は感じなかった。
依然として手紙を読み続けている女の子と芳賀の間に立って、どういうわけかじっとこちらを見つめている。芳賀と目が合うと、視線を床に落とした。若いのか、そうでないのか、年齢の見当がつかない。どこか、病的なものを感じさせるような男だった。
なんだか気にかかったが、芳賀はまた考えを紙袋へ戻した。
不思議なのは、三日経っても、1200万円の落とし主が現れないことだった。
普通、そんな大金を落としたり忘れたりしたら、必死になって探すだろう。落としたことをビルの管理会社に届け、それは芳賀の耳にも入ってくるはずだ。あのトイレを三日前に掃除したのが芳賀であることを、会社は知っているのである。こういう紙袋を見なかったか、という問い合わせぐらいあってもいい。
なのに、あの紙袋のことを訊いてくる者は、誰もいなかった。
芳賀にとっては、まことに都合がいい。
都合はいいが、しかし、同時に気味が悪かった。
なにか、事情があるカネのような気がしてくる。
どんな事情なのか、まるっきり見当もつかないが、どこか後ろに暗いものを持った事情――。
まともなカネではないのかもしれない。
そんな思いが、芳賀の中にずっとあった。
だから、紙袋は、押し入れの中に突っ込んだままになっている。
パアッと使ってみたい。
1200万円を使うなんて、一生に一度きり、後にも先にもこれっきりのことだろう。だから、思い切って使ってみたい。
しかし、正体のわからない不安が、それを使うことを押し止めている。
1200万というカネを邪魔になって捨てるような人間がいるとは、芳賀には想像できなかった。
カネは、いくらあっても邪魔にはならないだろう。
それを紛失して、三日経っても届けない。
いや、届けないのではなく、届けられないのではないか――そんな気がして仕方なかった。
なにかの犯罪に関わっているカネで、警察に届けることなど絶対に不可能なのではないか?
だとすると、それはどんな犯罪なのだろう?
ショッピングセンターのトイレに1200万の入った紙袋を隠す。
そのトイレは、一日に何百人という数の男たちが利用する。どのような人間がそこに入ってもおかしくない。
ある人間がカネを隠し、そのカネを別の人間が取り出す――。
何かの取引?
しかし、であるなら、どうして直接カネを手渡さないのか?
お互いに、顔を知られたくない……?
わからなかった。
まるで想像ができない。
「…………」
背中に視線のようなものを感じて、芳賀は、右手を振り返った。
あの薄汚い服装の男が、芳賀を見つめていた。
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