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 24:06 赤坂見附駅
 笠松富士夫
(かさまつ ふじお)


     たいへんなことになった。どうしたらいいだろう……。

 ぐにゃりとした結城の身体を支えながら、笠松は必死に自分を落ち着かせようとした。
 心臓が、ずくんずくん、と鳴っている。最後の伯父の顔が何度も記憶の中に現われた。口から泡を吹き、白目をむいた伯父の顔――。

 恐ろしかった。
 どうしたのだろう。結城は、いったい、どうしたのだろう……。

 お願いします……。
 言おうとしたが、言葉にはならなかった。ジャンパーの男が、不審な表情で笠松と結城を見つめている。
 お願いします、と結城はジャンパーの男に目を投げた。やはり声が出なかった。

 男は、ようやく事態を察してくれたようで、笠松にうなずくとポケットに突っ込んでいた手を外へ出した。二人のところへ歩いてきて、結城を覗き込むように身体をかがませた。

「き、急に」と笠松は男に訴えた。「急に倒れたんです」
 男は、黙ったまま結城を覗き込んでいる。
「病院へ……その」

 ゴツゴツした男の手が、結城の額に当てられた。そして男は、その手を結城の首筋に当てた。
 見かけは粗野な感じだが、結城の首筋を探っている男の手の動きは落ち着いていた。

「飲み過ぎたのか?」
 男が訊いた。どこか不機嫌そうな口調に聞こえた。
 笠松は首を振った。同窓会で飲んだのは確かだが、酔っ払うほどではない。だいたい、ついさっきまでは笑いながら話をしていたのだ。
「さっきまでは、なんでもなかったんです。急に、その……」

 結城の身体の重さが腕にかかっている。顔は苦痛に歪んだまま、しかし頬も閉じられた瞼も動いてはいなかった。

「運ぶのを……手伝って下さい」
 笠松はジャンパーの男に言った。
 男は「ああ」とうなずいたが、つけ加えるように言った。
「でも、動かしていいもんかな」
「…………」

 ギクリとして、笠松は結城の顔に目を落とした。
 動かしていいものか……。
 そう、この男の言うとおりだ、結城がいきなり倒れた原因がわからない以上、動かすのは危険かもしれない。
 しかし……。

「誰か、呼んできたほうがいいんじゃねえか?」
 男の言葉に、笠松は開いたままのドアからホームへ目をやった。
「でも……その間に、電車が走り出したら、あれですから」

 ジャンパーの男は「よし」とうなずき、結城の身体の下へ腕を差し込んで、ぐいと持ち上げた。
 笠松も、その反対側から必死で結城を支える。ぐにゃりとした身体が笠松と男の間にぶら下がった。

 懸命に歯を食いしばりながら、結城をホームへ引きずり出し、電車から離れる。
「おい、下ろすぞ」
 ジャンパーの男が言って、笠松は「はい」とゆっくり結城をホームに下ろした。力無く横たわった結城の上半身を、男は支えるようにして笠松を見上げてきた。

「ええと、あの……」
 笠松は、自分がただ突っ立っていることに気づき、慌てて言った。
「じゃあ、僕、人を呼んできますから。ちょっとお願いします」
 言うと、ジャンパーの男がうなずいた。

 笠松は身体を返し、ホームを走った。

「浅草行最終電車です。お乗りください」

 構内アナウンスが告げている。
 走る足下がおぼつかなかった。膝がガクガクとふるえている。

 結城……。
 頼むから、頼むからしっかりしてくれ。今、人を呼んでくるから。すぐに呼んでくるから、がんばってくれ。

 笠松は、必死に走った。駅員の姿を探す。
 向こうに階段が見える。その先に改札がある。あそこへ行けば人を呼んでもらえるだろう。

「あー、浅草行、ドア閉めますからご注意下さい」

 また、構内アナウンスが言った。
 笠松は、走った。
 

    結城克己 ジャンパーの男

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