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 24:06 赤坂見附駅
 米村正紀
(よねむら まさのり)


     腰は上げたものの、どうしていいのかわからない。米村は、床に倒れている男を凝視したまま、ごくりと唾を呑み込んだ。

 腹にドスをくらったような顔をしていた。もちろん、スーツの下のシャツは血に染まってはいなかったし、刺されたというわけではなさそうだった。
 しかし、男の顔は苦痛に歪み、ロウを張りつけたように青白くなっている。
 シャツの胸のあたりを、男の手が握りしめていた。

 こいつは、ヤバイんじゃないの?

 米村は、ジャンパーのポケットの中でナイフを握りしめながら思った。
 死ぬぜ、このオッサン。下手すると、死にますよ。

 男を抱き上げているビジネスマンが、米村にうなずいた。何をうなずかれたのかよくわからないが、米村も、ビジネスマンにうなずき返した。
 握りしめていたナイフをはなし、ポケットから手を出す。もう一度、唾を呑み込んだ。

 その……つまり、オレさまに助けてくれって言ってるのか? この、オレに?

 おそるおそる近づき、倒れている男の前にしゃがみ込んだ。
「急に……」
 と、ビジネスマンが言った。

「急に、倒れたんです。病院へ……その」
「…………」

 米村は、男の額に手を伸ばした。掌を当てると、男は冷たい汗をかいていた。
 そのまま首筋に掌を当てる。脈はあった。まだ、死んではいない。

「飲み過ぎたのか?」
 訊くと、ビジネスマンはブルブルと首を振った。
「さっきまでは、なんでもなかったんです。急に、その……運ぶのを、手伝って下さい」
「ああ」と、米村はうなずいた。「でも、動かしていいもんかな」
「…………」
「誰か、呼んできたほうがいいんじゃねえか?」
「でも……その間に、電車が走り出したら、あれですから」

 まあ、そうか……と米村はうなずいた。
 そのとき、ホームのほうで構内アナウンスが告げた。

「3番線停車中の電車、浅草行、本日の最終電車でございます」

 よし、と米村は、ビジネスマンの反対側から男の肩の下へ手を入れた。身体を引き起こす。
「…………」
 かなり重い男だった。
 ビジネスマンと二人で、両側から男を担ぎ上げるようにして立たせる。男の意識が完全になくなっているのが、肩にかかってくる重みに感じられた。

 息、してないんじゃないの、このオッサン……。

 ドアをまたぎ、電車からホームへ男を担ぎ下ろしながら米村は思った。
 確かに脈はあったが、生きた人間を担いでいるような感じがしない。まるで砂袋でも運んでいるみたいじゃないか。

 ホームへ降りると、電車に乗り込もうとしていたお姉ちゃんが驚いたような顔で米村たちを眺めていた。
「おい、下ろすぞ」
 担いでいる肩が痛くなって米村はビジネスマンに声をかけた。彼のほうも米村と同じ気持ちだったようで「はい」と何かが喉に詰まったような声を出した。
 ホームのコンクリートタイルに男を下ろし、寝かせておくのもなんとなくためらわれて、米村が男の肩から上を抱きかかえているような格好になった。

「ええと、あの、じゃあ、僕、人を呼んできますから。ちょっとお願いします」
 ああ、とうなずくと、ビジネスマンはホームの向こうへ駆け出して行った。
 気がつくと、ホームにアナウンスが流れていた。

「――浅草行最終電車です。お乗りくださあい」

 え? と、米村は電車に目をやった。
 その目を、抱えている男と電車の間で往復させる。
 さっきのお姉ちゃんが、乗り込んだ電車のドア口に立ってこちらを眺めていた。

 お、おい……なんだよ。冗談じゃねえぞ。

 ビジネスマンが走って行ったほうへ目を上げる。
 そのとき、腕の中で男が、うぐぐ……と低く声を出した。

「…………」
 なにか、不思議な感じがした。
 腕の中に死にそうな男がいる。その男は、自分の全体重を米村に預けている。
 他人から、これほど頼られた経験は、米村にとって生まれてはじめてだった。


 
   
    床に倒れて
いる男
男を抱き上
げているビ
ジネスマン
電車に乗り込
もうとしてい
たお姉ちゃん

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