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 24:07 神田-三越前
 飛沢賢治
(とびさわ けんじ)


     もったいをつけるように、ことさら大きくため息を吐き出すと、秋葉は「まあ、いいか」と肩をすくめた。
 あったりまえじゃないか、と賢治はうなずいた。

「じゃあ、今度は僕だね」
 前で吊革にぶら下がっている南雲が、楽しそうに言った。
「…………」
 賢治は、南雲を見上げた。
 ニコニコと笑いながら、南雲は賢治を見返した。

「ええと、じゃあ、僕はカドリング国」
「…………」
 南雲の言った地名を、賢治は知らなかった。
 カドリング……?

「なんだ?」
 と、秋葉が訊く。彼も知らないらしい。
「カドリング国」
 南雲が繰り返した。
「……それ、何に出てくるんだよ」
「え?」と南雲は驚いたように秋葉を見つめた。「オズのシリーズに登場する隣の国の名前だよ」

「そんなの……あったか?」
 秋葉が、賢治に言う。
 賢治は、さあ、と首を傾げた。
「あるよ。オズの魔法使いは好きなんだよ。何度も読んだから。『オズの虹の国』も『オズのオズマ姫』も、それから『オズのつぎはぎ娘』も、ええと『オズの――』」
「わかった、わかった」
 と、秋葉は南雲を黙らせる。
 南雲のほうは、ニコニコと笑いながら「今度は秋葉君だよ」と言った。

 ふうん……と、賢治は南雲のベルトのあたりに目をやりながら思った。
 こいつ、単なるバカかと思っていたが、妙なことを知ってるんだな。
 南雲は、鰐皮を模した信じられないようなベルトを締めていた。しかも、そのベルトは、幅が5センチ近くもあるのだ。
 こんなもの、どこに行けば売ってるんだ?

「ラピュタ。次、飛沢の番」
 突然、秋葉がふってきた。
「ラピュタって、ガリバー旅行記の飛ぶ島だよね」
 また、南雲はあたり前のことを訊いた。

「ほら、早く!」
 秋葉がせっつくように言う。
 うるせえな。わかってるよ。

 うーんと、ラピュタだって? 風の谷のナウシカ、というんじゃ、だめか……。
 ガリバー旅行記、ね。

 ああ、そうか。と、賢治は顔を上げた。
「リリパット」
「なんだよ、それえ」
 とたんに、秋葉が声を上げる。
「なんだよ、とは、なんだよ」
「同じじゃないかよ。オズって言えばエメラルド・シティで、ラピュタだと今度はリリパット?」
「いいんだろう? 立派な架空の地名だ」
 言い返すと、秋葉は笑い顔をしかめてみせた。

「それじゃ、連想ゲームになっちゃうぜ」
「連想ゲームでいいじゃないか。ガリバー旅行記が1つ出たら、その地名を全部あげたっていいわけだろ? だめだってルールは聞いてないぜ」
「いや、まあ、そうだけどね」
「そうやってつぶしていくのも、戦略の1つだよ」
「だけど、想像力が貧困だなあ」

 け、と賢治は肩をすくめた。
 なにが想像力だ。こんなものは想像力じゃない。単なる記憶力の問題じゃないか。

「ああ」
 南雲が、前で声を上げた。
「なるべく前の人と違った種類の地名を言ったほうがいいわけだね?」
 なんだっていいよ、と賢治は秋葉を見返す。
「とにかく、リリパット。貧困でも何でもいい。続けられればそれでいいのだ」
「わかった、わかった」

 不意に、斜め向こうから「遊ばれちゃったわけよ。遊ばれて、あきたら、ポイッてな」と門田の言う声が、耳に飛び込んできた。
 まあ、あきもせず……と、賢治は小さく首をすくめた。
 あいつら、女の話以外に話題はないのか。

「ええと、じゃあ、僕だね」南雲が張り切って言った。「じゃあ、シャングリラ」
「…………」

 賢治は、南雲を見上げた。
 秋葉と、顔を見合わせた。

「なんだって?」秋葉が訊く。
「シャングリラ」
「知ってる?」
 秋葉が、ふってきた。賢治は首を振る。
「ポオの『ヴァルドマアル氏の病床の真相』って短編に登場するんだ。それとジェイムズ・ヒルトンの『失われた地平線』にも出てくるんだよ」
「…………」

 なんだ、こいつ?
 再び、賢治は秋葉と顔を見合わせた。


 
     秋葉   南雲   門田 

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