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 24:07 三越前駅
 小田切基樹
(おだぎり もとき)


     うん。

 と、小田切はうなずいた。
 親はずいぶん悲しませました。はい。学校を辞めさせられたときも悲しませましたし、家に火をつけて保険金をもらおうとしたときも悲しませちゃいました。それから、それから……もう、思い出せませんね。そういうこと、いっぱいありますけど、あんまり多すぎちゃって、忘れちゃいました。

 あははは。

 親父は「親でもない、子でもない」なんて、言いましたね。お袋は、泣きながら「犬にでも食われて死んでしまいなさい」って言いました。
 ふうむ。
 酔っぱらってますか? 僕。

 でも、死んでしまうと、もう親を悲しませることもないですね。
 たぶん喜んでくれますね。
 せいせいするんじゃないかと思います、はい。

 クスクスと、また小田切は笑った。
 笑ったとたんに、足を踏み違え、危うく転びそうになった。

 おっとっと。
 大丈夫ですかね、この駅。なんだか、ずいぶんデコボコですよ。立っているだけでも苦労します。
 駅は、ちゃんと作りましょうね。みんなの大切なものですからね。こんなにグニャグニャに作ってしまってはいけません。

 えっと……これから、僕、電車に乗って、どこに行くんでしたっけ?
 飲みに行くんですか?
 だとしたら、楽しいですね。今日は、何かのお祝いの日だったっけな?

 いや、ちがいます、ちがいます。
 と、小田切は笑いながら手を振った。
 飲みに行くんじゃありませんでしょ。飲んできたんじゃないですか。恐いお兄さんに放り出されたばっかりでしょ。

 ねえ?

 だから、これからおうちに帰るんです。
 おうちに帰るのに電車に乗ると、こういうわけです。はい。

 いや、でも、僕、おうちありませんね。
 では、どうしましょ。

 ぷーっ、と小田切は吹き出した。

「1番線、電車が参ります」
 と、アナウンスが言った。
「はい。承知しました」と小田切はきおつけをした。
「1番線に参ります電車、銀座、赤坂見附方面、渋谷行です」
「あ、そうですか。ありがとうございます」
 小田切はお辞儀をしながらアナウンスに答えた。お辞儀をしたとたんに転びそうになった。
「黄色い線より下がってお待ち下さい」

 あら……と、小田切は周りを見回した。
 黄色い線って、どこにあるんでしょうか?
 小田切の右手でしゃがみ込んで線路を覗いていた男が立ち上がった。
 小田切は、その男の真似をして、チョコチョコと後ろに下がった。下がった拍子にまた転びそうになった。

 左の階段を紙袋を提げた男が降りてきた。
 男がニコニコと小田切に笑いかけたので、小田切もニコニコと笑い返した。すると、男は笑うのをやめ、小田切から視線をそらせて線路のほうへ身体の向きを変えた。

 先輩。
 一緒に笑いましょうよ。そんな、急にまじめな顔しなくってもさ。
 笑う門には福来たるって、ね?

 あら、つめたいんだ。
 すねちゃうよ、僕。

 クスクスと小田切は一人で笑った。
 なにがおかしいんだか、自分でもよくわからなかった。
 ただ、笑いが止まらなくなっていた。


 
    線路を
覗いて
いた男 
紙袋を
提げた男

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