![]() | 24:08 神田-三越前駅-日本橋 |
賢治は、南雲の言った『失われた地平線』を読んでいなかった。ポオの作品など、タイトルすら知らない。 こいつ……単なるバカじゃないぜ。 「ええと……ムーミン谷」 秋葉が言った。 「え?」と賢治は秋葉を見た。「そういうのもありかよ」 「ありかよって、架空の地名なんだから、ありだよ」 秋葉は、シラッと言い切った。 「だって、それ、アニメじゃないか」 チラリと、秋葉が後ろの窓に目をやり、賢治もつられてそっちを見た。電車が駅に停まっている。 「アニメだろうが、なんだろうが、海外の架空の地名ならいいだろ?」 秋葉が言う。 最初に、小説って言わなかったか、小説って。 「お前、そんなこと言ったら――」 言いかけたとき、南雲が口を開いた。 「あ、ムーミン谷は、小説だよ」 「…………」 賢治は、南雲を見上げた。 南雲は、ニコニコ笑っていた。 「トーベ・ヤンソンの書いた児童文学だよね。『ムーミン谷の彗星』とか『ムーミン谷の仲間たち』とか『ムーミン谷の夏祭り』とか7つか8つぐらいあったんじゃなかったっけ」 ふう、と息を吐き出した。 電車の発進と共に身体が揺れた。 「南雲、お前、よく知ってるな、そんなもの」 言うと、南雲はまたニコニコと笑った。 「好きで、何度も読んだからね」 知らなかった。 こいつ、本の虫だったのか。 「先、行こう」と秋葉が促した。「とにかく、ムーミン谷だ。飛沢の番」 賢治は、なんとなく首を振った。 すっかり南雲に圧倒されている。 「じゃあ……ええと」 なかなか、言葉が出てこない。 「降参か?」 と、秋葉が笑いながら言った。 「ばかやろ。えっと……」 必死になって考える。 なにか、あっただろうか。ムーミンはアニメだった。アニメ。アニメ。いや、アニメのほとんどは日本のものしか観ていない。海外のアニメ? 「あ」と、次の瞬間、思い出した。「ペパーランド」 「なんだ?」 と秋葉が訊き返す。 「ビートルズの『イエロー・サブマリン』の舞台」 言うと、秋葉は、パチパチと瞬きを繰り返した。 「そんなの……」 「海外の架空の地名だ」 笑いながら賢治は言った。 自分がさっき言ったルールの変更に首を絞められてやがる。ざまみろ。 「……ちなみに」と秋葉は助けを求めるように南雲を見上げた。「『イエロー・サブマリン』ってのも小説か?」 南雲は、ニコニコ笑いながら首を振る。 「ちがうよ。あれは、ジョージ・ダニング監督の作ったオリジナル・アニメーションだもの」 監督の名前まで覚えてやがった……。 次第に、南雲が違う人間に思えてきた。 秋葉に確認をとる。 「さっき、お前はアニメだろうがなんだろうが、って言ったよな」 言うと、秋葉は肩をすくめた。 「ま、いいとするか」 イヒヒ、と笑ってやった。 「じゃ、僕だね」と南雲が言う。賢治は、今度は南雲がなにを言うのかと彼を見上げた。「それじゃあ、ビュテュア」 「…………」 ビュテュア……なんだ、それ? 「知らない?」 と、南雲はニコニコ笑いかけながら言う。 「それも、児童文学かなにかに出てくるのか?」 訊くと、南雲は笑顔のまま首を振った。 「児童文学じゃないよ。マルキ・ド・サドの『アリーヌとヴァルクール』って小説に出てくる南アフリカにある王国なんだ」 |
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