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 24:08 神田-三越前駅-日本橋
 秋葉博
(あきば ひろし)


     なんとなく気勢をそがれた。
 ヒロシは、ふう、と息をついて首を振った。

 なんだ、この南雲のバカ野郎は。
 シャングリラだって?
 ほんとかよ。

 なにを考えていたのか忘れてしまった。
 なんでもいいや。

「ええと……ムーミン谷」
 言うと、飛沢がヒロシを見返した。
「え? そういうのもありかよ」
「ありかよって、架空の地名なんだから、ありだよ」
「だって、それ、アニメじゃないか」

 ドアの開く音がして、駅に着いていることに気づいた。

「アニメだろうが、なんだろうが、海外の架空の地名ならいいだろ?」
 言うと、飛沢は冷やかすような笑いを浮かべた。
「お前、そんなこと言ったら――」
 その飛沢の言葉を遮るようにして、南雲のバカが口を挟んだ。
「あ、ムーミン谷は、小説だよ」

「…………」
 ヒロシは、南雲のバカを見上げた。

「トーベ・ヤンソンの書いた児童文学だよね。『ムーミン谷の彗星』とか『ムーミン谷の仲間たち』とか『ムーミン谷の夏祭り』とか7つか8つぐらいあったんじゃなかったっけ」
「…………」

 電車が動き出し、飛沢の肩がヒロシにぶつかった。
「南雲、お前、よく知ってるな、そんなもの」
 飛沢が、あきれたような声を出して言った。
「好きで、何度も読んだからね」
 南雲のバカは、ニコニコと笑いながら得意そうに言う。
 相手にしていると、こっちの調子までおかしくなってくる。

「先、行こう」と、ヒロシは飛沢に言った。「とにかく、ムーミン谷だ。飛沢の番」
 飛沢は、やれやれというように首を振り「じゃあ」と眼を閉じた。「ええと……」
「降参か?」
 笑いながら言う。飛沢は、眼を開いてヒロシをにらみつけた。
「ばかやろ。えっと……あ、ペパーランド」

 ヒロシは、眼を瞬いた。
「なんだ?」
「ビートルズの『イエロー・サブマリン』の舞台」
「そんなの……」
 飛沢が、ニヤリと笑った。
「海外の架空の地名だ」

 うっ、とヒロシは一瞬言葉に詰まった。
 目を上げて、南雲のバカを見る。
「……ちなみに『イエロー・サブマリン』ってのも小説か?」
「ちがうよ」と、バカは笑いながら言った。「あれは、ジョージ・ダニング監督の作ったオリジナル・アニメーションだもの」
「…………」
 訊くんじゃなかった。

「さっき、お前はアニメだろうがなんだろうが、って言ったよな」
 言質を取って飛沢が言う。
「ま、いいとするか」
 ヒロシは、肩をすくめた。
 飛沢が、ひひひ、と笑い声を立てた。

「じゃ、僕だね」と、南雲のバカが言う。「それじゃあ、ビュテュア」
「…………」

 ヒロシは、またバカを見上げた。
 なんだ、こいつ?

「知らない?」
 バカが、得意になって訊いた。
「それも、児童文学かなにかに出てくるのか?」
 飛沢が訊ねる。

「児童文学じゃないよ」と、バカは笑いながら首を振った。「マルキ・ド・サドの『アリーヌとヴァルクール』って小説に出てくる南アフリカにある王国なんだ」


 
    南雲の
バカ野郎
 飛沢 

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