前の時刻

  

 24:09 三越前-日本橋駅
 秋葉博
(あきば ひろし)


    「サド?」
 飛沢が、あきれたような声で訊き返した。

 ヒロシも、ついつられて訊いた。
「サドって、サド・マゾのサド?」
 南雲のバカは、嫌みったらしく笑いながら、得意がってうなずく。
「そうだよ。マルキ・ド・サド。同じ『アリーヌとヴァルクール』の中にはタモエっていう名前の架空の島もでてくるんだ」
「お前――」
 と、飛沢が言いかけたとき、アナウンスが次の停車駅を告げた。

「まもなく日本橋、日本橋。東西線はお乗り換えです。今度の東西線西船橋行の最終電車は12分の発車です。お出口は左側に変わります。お手回り品、お忘れ物ないよう、ご注意を願います。日本橋でございます」

 バカのおかげで、調子、すっかり狂っちまった。
 ヒロシは、うんざりしながら胸の前で腕を組んだ。
 サドだって? なんだよ、それ。

「南雲、お前、めちゃ物知りじゃん」
 飛沢が、からかうようにバカに言った。
「そんなことないよ」
 バカは、勝ち誇ったように言う。
 ほらみろ、とヒロシは顔をしかめた。そんな嫌味は、このバカには通じないんだよ。真に受けて得意がらせるだけだ。

「読む本に傾向ってものがないよな」と、ヒロシは言った。「ムーミンにイエロー・サブマリンにサドだって」
 途端に、南雲のバカが、すっとんきょうな声で笑い出した。
「イエロー・サブマリンは小説じゃないよ」
 さっき言ったばかりのことを繰り返して言う。それで、勝ったつもりでいるのだ、このバカは。
「わかったわかった」
 いいかげんアホらしくなって、ヒロシは足を投げ出した。

 やってらんねえや、こんなバカが相手じゃ。

 遅いなあ、この電車。日本橋だって言ったろ。なに、ノロノロ走ってるんだよ。
 せっかく盛り上がってきたところを、南雲みたいなバカにしらけさせられた。だいたい、お前なんか入れてやるって言った覚えないぞ。なんで、バカが首突っ込んでくるんだよ。

「どのぐらい本読んでるんだ?」
 飛沢が、またバカに訊く。
「そんなに読まないよ。月に10冊か15冊ぐらいだから」
 思った通り、バカは図に乗って言う。
「……てことは、2日か3日に1冊は読んでるってことじゃないか」
 飛沢は、さらにバカを増長させるように言った。

「お父さんが書庫に何万冊って本を置いてあるんだよ。その本の整理を手伝ってるから」
「何万冊……」

 いいかげんにしとけよ、とヒロシは思ったが、それを口に出すのもばからしくなった。
 電車の窓が明るくなって、ようやく日本橋のホームが見えた。

「着いたぞ、日本橋」
 言いながら、ヒロシは立ち上がった。
「お? おお」
 飛沢が気づいたように声を上げる。
 ヒロシは、ドアのほうへ歩いた。門田たちが、ドアの前をふさいでいる。
「本人に訊くのが一番じゃないの? だれとつき合うつもりなのか」
 涌島が、とぼけたような声で言っているのが聞こえた。この涌島も、南雲に劣らぬバカだ。

 バカが多いぜ、まったく……。

 電車が停まりドアが開いた。
 門田たちに続いて降りる。
 飛沢は、南雲の脇を歩きながら、また訊いている。
「整理って、どういうことするんだ?」
「著者ごとにまとめて、図書カード作って、パソコンにデータベース作ってるんだ」
「すげえ……」

 け、と、ヒロシは苦笑した。

「ああ、すごい、すごいよ、まったく」
 言って、ため息をついた。

 やってらんねえや……と、ヒロシはまた思った。


 
     飛沢  南雲の
バカ
  
 門田   涌島 

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