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 24:09 新橋駅
 舟山新吉
(ふなやま しんきち)


    「べつに」と、安江が口元に薄笑いを浮かべて肩をすくめた。「ママからほったらかしにされて育ったから、舟山君はこんなに立派なおとなに成長できたんだろうなって思っただけだよ」
「…………」

 新吉の口の中で、ガムがキュッと小さな音を立てて鳴った。

「ずいぶん……バカにした言い方ですね、それ」
 言うと、安江は、へへへ、と言うように口をひん曲げてみせる。
「バカにしてるわけないだろう。舟山君は、アサカネの契約を80本もまとめるような凄腕を持ったお方なんだからさ」

 嫌味を言ったつもりなのだろうが、新吉には、その安江の口調が彼自身の無能を強調しているように聞こえた。
 哀れだね、まったく。
 すうっと息を吸い込んだ。

「……ああ、なるほど」
 意識して作ったわけではなかったが、見下したような口調になった。
 その言葉に、安江がギロリと目を向けてきた。
「なんだ、そのなるほどってのは」
「ようするに、ひがみですか、それは安江さんの」
「…………」

 一瞬、安江の表情が凍りついたように見えた。
「ひがみ?」安江は牧課長の前を新吉のほうへ踏み出しながら顎を上げた。「おい、つけあがるのもいいかげんにしろよ」
「よしなさい」と、牧課長が安江を見据えるようにして言った。「みっともないわね、あなたたち」
 安江が「けっ」と顔を背けた。

 ざまあみろ、と新吉は腹の中で笑いながら安江を眺めた。
 ほんとに、哀れな男だ。
 ひがんだり怒ったりする前に、ニッコーの契約をまとめてくるのが筋だろうが。自分がしなきゃならないこともせずに嫌味を言ったって、こっちには痛くも痒くもない。

「ママが怒るとこわいぞ、か」
 安江のつぶやいた声が、新吉の耳にも聞こえた。
 大声を出して笑ってやりたくなった。

 この人は、自分がどれだけみっともないかってことがわからないのだろうか。
 自分が負け犬になっているのが、恥ずかしくないのだろうか。
 いや、と新吉は小さく首を振った。
 この安江は、投げてしまっているのだ。彼にしてみたって、自分の無能なことはいやというほど自覚しているだろう。いくら努力してみても、しょせん能力のない人間には限界がある。その限界を知って、投げているのだ。もう、自分を捨ててしまっているのだろう。

 哀れだな、と新吉はまた思った。
 その気持ちが、つい口に出た。

「安江さん。気持ちはわかりますけど、安江さん自身がもう少しおとなになったほうがいいんじゃないですか」
 そっぽを向いていた安江が、いきなり新吉に向き直った。
「この野郎。偉そうな口叩きやがって。おまえ、誰に向かって言ってるんだ。気持ちがわかるだと? どういう気持ちだ。ええ? 言ってみろ」
 とたんに、牧課長が割って入った。
「よしなさいって言ってるでしょう。2人とも」

 言って、課長は安江と新吉を見比べた。
 ふう、と新吉は息を吐き出した。
「すみません」
 頭を掻きながら、新吉は、課長にその頭を下げた。
 安江は、依然として新吉を睨みつけていた。

 こわくないよ、と新吉は安江を見返し、そしてその目をゆっくりと前方へ戻した。

 誰に向かって言ってるんだ、だってさ。
 笑っちゃうよな。ああ、あんたに向かって言ってるんだよ。安江先輩に向かって言ってるんですよ。「先輩」が聞いて呆れちゃうけどね。
 何年も前に会社に入ったってことが、そんなに偉いわけだ。可哀想に。先輩だっていうことしか、あんたにはないんだね。
 ああ、可哀想に。

 新吉は、顔をほころばせた。


 
     安江  牧課長 

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