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 24:10 日本橋駅-京橋
 平岡芽衣
(ひらおか めい)


    「嘘じゃないよ。あなたに嘘なんかついても仕方ない」沖崎は、芽衣の耳元に口を寄せるようにしてささやいた。「嘘じゃないんだ。ほんとうに和則君は誘拐されているんだよ。大変なことが起こってるんだ」

 ホームでチャイムが鳴って、電車のドアが閉まった。
 電車は走りはじめる。徐々にスピードを上げながら。その加速を芽衣のお尻に伝えながら。

 カズくんの寝顔が、芽衣の胸の中に見えていた。

 あの子が、まあちゃんとあたしの子供だったらよかったのに。
 素敵だろうな、と芽衣は思った。
 カズくんを連れて、まあちゃんと一緒にディズニーランドに行こう。全部の乗り物に乗っちゃうんだ。パスポートだったっけ。一日中、乗り放題の券。

 でも、カズくんはまだ小さいから、あんまり怖いものには乗せられないな。男の子だから、きっと強がって大丈夫って言うだろうけど、でもあたしだって怖いアトラクションってあるんだもの。
 ディズニーランドに行って、葉山の海に行って、芦ノ湖でボートにみんなで乗って……きっと楽しいだろうな。
 ずっと、3人で暮らせたら、きっと素敵だな。

「今なら、まだ間に合う、と思うんだ」
 沖崎が言って、芽衣は思わず彼のほうを見た。
「え……?」
「今、兼田さんが抱えているクーラーバッグには、大金が入っている。そのお金は、犯人に渡すために持ってきたものだ。お金を渡せば、和則君を返してくれるという約束でね。だけど、あのお金が犯人の手に渡ってしまったら、もう、取り返しはつかなくなる」

 取り返しがつかなくなる……?
 なにを言っているんだろう? 沖崎さんは、何を言いはじめたんだろう?

「犯人は、なにも見えなくなっているんだよ。自分のしていることが、どんなにひどいことなのか、どんなに悪いことなのか、なにも見えなくなってしまっているんだ。これは想像だけど、たぶん、お金がほしいだけなんだろうと思う。兼田さんに恨みがあるわけじゃないだろうし、まして和則君に恨みを持っているわけでもないだろう」

 あたり前だ。
 カズくんに恨みなんてあるわけがない。
 あんなに可愛い子なんだもの。

「ただ、お金を手に入れたいと思っているだけなんだと思うんだよ。でも、和則君を誘拐して、お金を取ったとしたら、もう取り返しがつかないことになる。誘拐っていうのは、ものすごく重い罪なんだ。人を殺すのと同じぐらいの重い罪なんだ。いままで、日本で誘拐が成功したことは一度もないんだ。全部、犯人が捕まっている。中には、死刑になった犯人もいる」

 死刑……。
 また、その沖崎の言葉が、耳の中で外国語のように響いた。
「あたし……」
 言いかけた言葉が、喉のどこかにひっかかった。

「我々は、犯人を殺したいと思ってるわけじゃない。もちろん、捕まえる。必ず、100パーセント、捕まえる。でも、なにがなんでもその犯人の罪を重くしたいと考えているわけじゃない。できることなら、まだ軽い罪のうちに――和則君を安全に返して、お金を取ることをあきらめて、まだそんなに罪が重くならないうちに、気がついてほしいと思っているんだ」

 罪が重くならないうちに……。
 誘拐。重い罪。死刑――。

「それは、今なんだよ。この電車が銀座に着く前に、兼田さんからお金を奪う前に、気づいてほしいんだよね。今だったら、まだ間に合うと思うんだ。今のうちだったらね」

 やめて、と芽衣は叫びたかった。
 もう、そんなことを言うのはやめて。そんなこと聞きたくない。
 ウソよ。そんなのウソよ。みんなウソよ。
 まあちゃんが誘拐なんて……嘘よ。

「彼を、愛してるんだね」

 え、と芽衣は沖崎を見返した。
 沖崎は、優しい顔をしていた。
 まるで、本当のお父さんのような顔をしていた。

「好きなんだろ? 彼のこと。だったら、彼の罪を軽くして上げるのが、あなたにとって一番良いことなんじゃないかな」
「あたし――」

 でも、やっぱり、なにを言えばいいのかわからなかった。
 まあちゃんの罪を軽くして上げる……。

 ちがうもの。

 そうじゃないもの。
 まあちゃんは……まあちゃんは、誘拐なんてしない。そんなこと、しない。

「ご乗車、ありがとうございます」アナウンスが言った。「銀座線渋谷行の電車です。まもなく京橋、京橋です。お出口右側に変わります」

 ちがうもの。


 
     沖崎  兼田さん

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