![]() | 24:10 日本橋駅-京橋 |
水商売の女のように見えるが……と、兼田は刑事と話をしている女から視線を前に戻しながら思った。 あの女も、やはり警察の人間なのだろうか? 婦人警官の変装? もちろんそれはあり得る。 銀座には和則がいる。だから、女性の刑事も必要だ。つまり、そうなのだろう。 「…………」 ドアが閉まるとき、一人の乗客が最後尾のドアから電車に駆け込んできた。電車が動き出すと、男は車内を見渡し、兼田のほうへ向かって歩いてきた。 緊張が、兼田の身体を固くする。 この男が――と、つい考える。 普通の勤め人のような印象だった。どこか暗い表情をしているが、一人で乗ってくる客はだいたいそんなものだ。明るい表情で、ニコニコしながら一人で電車に乗っている人間などそういるわけじゃない。 男は、ドアを挟んで兼田の左に腰を下ろした。その時、男の顔がまともに兼田のほうへ向けられ、慌てて膝のクーラーバッグへ目を落とした。 「…………」 いけない。 また、人を見ている。 あと二つ。 銀座は、あと二つめだ。 自分に言い聞かせる。 もう、とっくに極限を超えていた。時間の流れが、とてつもなく遅い。実際にはさほどの時間が経っているわけではない。11時57分に浅草を出た。今は12時10分だ。つまり13分程度しか経っていない。 しかし、兼田は、もう自分が何年もこの電車に乗り続けているような気分だった。 「時計が壊れてるの?」 不意に、ずいぶん前の妻の言葉が胸の中で甦った。 その言葉を聞いたのは、結婚する前だ。 デートをするために待ち合わせをした。日曜日で会社は休みだったが、出掛けようとしていたときに電話がかかってきた。 電話の相手は取引先の部長で、すぐに切るわけにはいかなかった。さほどの用件があったわけではないが、部長はなかなか電話を切ってくれなかった。先方が受話器を置かない限り、こちらからでは話をやめられない。 部長は、自分の部下の失態を詫びる言葉を何度も口にした。どんな失態だったか、今では忘れている。とにかく、さほど問題になるようなものではなかったはずだ。 しかし、部長は詫びる言葉を言い続けた。気にしないで下さいと、何度も兼田は相手に言った。 30分を超える長い電話を終えて、兼田は家を飛び出した。すでに約束の時間が迫っている。電車で行ったのではかなり遅れてしまうと考えて、タクシーを拾った。それが間違いだった。タクシーは渋滞に巻き込まれ、結局、目的地に行き着いたときは、約束の時間を40分以上も超過していた。 明らかに、妻は怒っていた。その怒りが「時計が壊れているの?」という嫌味になって出た。 しかし、その彼女の言葉が、兼田には腹立たしく感じた。 時間を忘れていたわけではない。もちろん故意に遅れたわけでもない。取引先からの電話でやむにやまれずの状態だったのだ。 むろん、兼田は最初に謝った。 でも、彼女は許してくれなかった。許してくれない彼女に、逆に兼田は腹を立てた。 あれが、最初の喧嘩だった……と、兼田は思った。 「ご乗車、ありがとうございます」 アナウンスが告げて、兼田はクーラーバッグから顔を上げた。 「銀座線渋谷行の電車です。まもなく京橋、京橋です。お出口、右側に変わります」 はやく――。 と、兼田はまた思った。 お願いだから、もっと速く走ってくれ。 |
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