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 24:10 日本橋駅-京橋
 沖崎勲
(おきざき いさお)


    「嘘じゃないよ」
 と、沖崎はメイを見つめながら首を振った。
「あなたに嘘なんかついても仕方ない。嘘じゃないんだ。ほんとうに和則君は誘拐されているんだよ。大変なことが起こってるんだ」

 ドアが閉まり、電車が動き始めた。
 しかし、やはりメイは黙ったままだった。

 ここからが問題だ。
 本来なら、このメイと犯人の関係をちゃんと把握してから、こういう質問はすべきだ。まだアツアツの恋人同士なのか、それとも腐れ縁のようなものなのか、あるいは暴力かそれに準じた男の行動がメイを縛りつけているのか――2人の関係によって、質問の仕方は変わってくる。
 しかし、当然のことながら、今はそんなことを探っている時間の余裕などどこにもない。とにかく、肝心な部分だけを一気に訊き出さなければならないのだ。

 どうするか……。

 やはり、賭だ――と、沖崎は思った。
 メイの、動き始めている良心に賭けるしかない。

「今なら、まだ間に合う、と思うんだ」
 え? と言うように、メイがこちらを向いた。
「今、兼田さんが抱えているクーラーバッグには、大金が入っている。そのお金は、犯人に渡すために持ってきたものだ。お金を渡せば、和則君を返してくれるという約束でね。だけど、あのお金が犯人の手に渡ってしまったら、もう、取り返しはつかなくなる」
「…………」
「犯人は、なにも見えなくなっているんだよ。自分のしていることが、どんなにひどいことなのか、どんなに悪いことなのか、なにも見えなくなってしまっているんだ。これは想像だけど、たぶん、お金がほしいだけなんだろうと思う。兼田さんに恨みがあるわけじゃないだろうし、まして和則君に恨みを持っているわけでもないだろう。ただ、お金を手に入れたいと思っているだけなんだと思うんだよ。でも、和則君を誘拐して、お金を取ったとしたら、もう取り返しがつかないことになる。誘拐っていうのは、ものすごく重い罪なんだ。人を殺すのと同じぐらいの重い罪なんだ。いままで、日本で誘拐が成功したことは一度もないんだ。全部、犯人が捕まっている。中には、死刑になった犯人もいる」

 メイが、なにかを言いかけた。
 それを訊き返したい気持ちをぐっと抑えて、沖崎はさらに続けた。

「我々は、犯人を殺したいと思ってるわけじゃない。もちろん、捕まえる。必ず、100パーセント、捕まえる。でも、なにがなんでもその犯人の罪を重くしたいと考えているわけじゃない。できることなら、まだ軽い罪のうちに――和則君を安全に返して、お金を取ることをあきらめて、まだそんなに罪が重くならないうちに、気がついてほしいと思っているんだ」
「…………」
「それは、今なんだよ。この電車が銀座に着く前に、兼田さんからお金を奪う前に、気づいてほしいんだよね。今だったら、まだ間に合うと思うんだ。今のうちだったらね」

 メイの胸が大きく上下していた。
 視線を下へ向け、必死になって、なにかをこらえている。
 もう少しだ、と沖崎は思った。
 あと少しで、堤防が崩れる。

「彼を、愛してるんだね」
「…………」
 メイが、眼を見開いて沖崎を見た。
「好きなんだろ? 彼のこと。だったら、彼の罪を軽くして上げるのが、あなたにとって一番良いことなんじゃないかな」

「あたし――」
 メイは、そう言って、また口を閉ざした。
 先ほどまで見せていた明るい表情は、もうどこにもなかった。

「ご乗車、ありがとうございます」
 車内アナウンスが、鳴り始めた。
「銀座線渋谷行の電車です。まもなく京橋、京橋です。お出口右側に変わります」

 京橋――。
 あとひと駅しかない。


 
     メイ  兼田さん

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