![]() | 24:10 日本橋駅-京橋 |
もちろん、乗るべきなのだ。 ……と、彼は思う。 この電車に乗るために地下鉄へ降りてきたのだし、切符だって買ったのだ。新橋で乗り換えて、泉岳寺まで。 たしかに、こんな時間に他人の家を訪ねるのが非常識だということは知っている。いくら、先方がいいと言ってくれたとはいえ――。 ピンポンピンポン、というチャイムが鳴り響き、彼は慌てて顔を上げ、目の前に開いたドアから電車に飛び乗った。飛び乗ると同時に、後ろでドアが閉じた。 「…………」 ガランとした地下鉄の車内を、ぼんやりと見渡す。 深夜なのだ。もう12時を過ぎた。電車だって、ガラガラだ。ここに乗っている人たちは、全員が帰宅するのだ。これからどこかへ出かけるなどという人はいない。 ゆっくりと、彼は車内を歩き、斜め前の座席へ向かった。その並びには、若い女性が一人で座っていた。その女性は、彼と目が合ったとたん、なにか怒ったような表情で顔を背けた。彼女がずっと自分を見ていたように、彼は感じた。 女性から離れたシートの端まで歩き、彼はそこへ腰を下ろした。ドアを越えて、向こうのシートに腰を下ろしていた男が、彼から目を背けて膝に乗せた青いクーラーボックスを持ち直した。男もまた、自分を見ていたように彼は思った。 車窓の外は暗い。黒く汚れた壁が、車内の光を鈍く跳ね返しながら後方へ流れている。電車の中で、彼は一人だった。連れのない乗客も、車内のあちこちに見えていたが、その誰よりも、彼は独りぽっちだった。 高校の教師は、関口という名前だった。 「真吾か? 物部真吾?」 電話の向こうで、関口教師は驚いた声を上げた。 「いや、久しぶりだなあ。ずっと会ってない。何年ぶりだろう。君は、何期生になるんだっけ?」 「28期生です」 彼は、卒業アルバムに書かれていた通りに答えた。「ですから先生とは13年ぶりということになるようです。D組でした」 自分の言葉が何もかも嘘に思えた。 いきなり、会って話がしたいという彼の言葉に、教師は驚いたように一瞬口を閉ざした。しかし、彼の口調に何かを感じ取ったのだろう。 「どうかしたのか?」 「すみません。こんな時間に」 「いや、俺はかまわないが……何か困ったことでも起こったのか?」 「はい。それで先生にお話を伺いたいと思いまして」 「…………」 非常識な彼の言葉に、関口教師は「すぐに来なさい」と言ってくれた。 だから、今、彼はこの電車に乗っている――。 自分が写っている写真が見たいと言ったとき、〈亮子〉が押し入れの奥から出してくれたのは、高校の卒業アルバムだけだった。 「これだけ?」 訊き返すと、〈亮子〉は「だって……」と言った。「だって、あなたは信じられないぐらいの写真嫌いだったじゃないの。結婚式の記念写真だって燃やしちゃったのよ。覚えてないの? ウチにある写真は、全部燃やしちゃったじゃないの」 覚えていない。なにも覚えてはいないのだ。 私は、写真嫌いだったのだろうか? ウチにあった写真を、すべて燃やしてしまうほどの写真嫌いだったのだろうか? なのに、高校の卒業アルバムだけは燃さずに残して置いたのか? それは、なぜだろう? 私が写真嫌いになったのはいつなのか? 〈亮子〉と結婚した後なのか? そのずっと前からなのか? ずっと前から写真嫌いだったのだとしたら、どうして私は〈亮子〉と新しい家で生活をはじめることになったとき、以前の写真を持ってきたりなどしたのだろう? どうして、結婚式の記念写真など撮ったのだろう? 結婚した後で写真嫌いになったのなら、それは何が原因だったのだろう? わからなかった。 まるで、わからない。 「ご乗車ありがとうございます。銀座線渋谷行の電車です。まもなく京橋、京橋です。お出口、右側に変わります」 車内アナウンスが告げ、彼は、ぼんやりとした目を車窓へ向けた。 |
![]() | 若い女性 | ![]() | 向こうのシートに 腰を下ろしていた男 |