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 24:10 新橋駅
 安江 務
(やすえ つとむ)


     じゃあ、そのふやけっぱなしの笑顔を引っ込めてやろうじゃないか。
 安江は、ズボンのポケットに手を突っ込み、素知らぬ顔をして舟山を見返した。

「ああ、そう言えば、舟山君。君、総務の前野って子となにかあるのか?」
「え……」
 舟山が、驚いた顔を安江のほうへ向けてきた。
「ほら、去年だか入ったばっかりの可愛い子さ。前野……なんて言ったっけな。髪の長い、ちょっとぷっくらした感じの」

 舟山は、戸惑ったように安江と牧課長を見比べた。
 明らかに動揺している。
 誰も知らないと思ってるんだろうが、隠せるわけないんだよ。社内の情報は、ちゃんとオレの耳に入ってくるようになってるんだから。

「なにかって……なんですか?」
 舟山が、すっとぼけて訊き返す。
 安江は、ヒョイと首をすくめてみせた。
「いや、知らない? けっこう噂になってるみたいだからね」
「……うわさ?」
 舟山の視線が細かく揺れ動いていた。

 感情を隠すってことがまるでできないのか、このお坊っちゃんは。
 安江は腹の中で笑ってやった。

「あの子、アサカネの常務のお気に入りみたいで、この前、その常務の息子と見合いをしたらしいんだな」
 どうやら、舟山は知らなかったらしい。
 眼を丸くして、あからさまに驚いている。
「……へえ、そうなんですか?」
 落ち着いた声を出そうとしているんだろうが、その言葉が喉のどこかに引っかかってやがる。
「うん。先方もけっこうあの子が気に入ったらしい。ただ、あるところから、舟山君とつきあってるんじゃないかって声があってね」

「え?」
 舟山は、また安江と牧課長を見比べた。
 牧課長のほうも、安江から舟山に視線を返した。
 安江は、首を振ってみせる。

「いやいや。噂だからね。無責任に言ってるやつがいるってだけのことだと思うけどさ」
「それ……その、どうしてそんなこと」
「いや、オレは笑ってやったんだよ。そんなバカな噂を信じるんじゃないってね。だってそうだろ? もし、舟山君とその前野って子がつきあってるんだとしたら、アサカネの契約がうまくいくわけないからさ」
「…………」
「君と彼女の噂が流れてるって、知らなかった?」
 ぶるぶる、と舟山は首を振った。

 安江は、笑い出したいのを我慢しながら、真面目な顔を作ってうなずいた。

「ねえ」と牧課長が口を挟む。「仮に舟山君とその前野さんがつきあっていたとしても、それと契約は関係ないでしょう?」
 あらま、と安江は課長を見返した。
「関係ないですよ。もちろん、ほんとは無関係ですよ。でも、相手があの常務でしょう。聞いたところによると、息子よりも常務のほうが積極的らしいってことですよ。前にウチの会社に来たときに、その前野って子が常務にお茶を出して、それで一目惚れっていうのかな。親父が一目惚れしてどうすんだって思うけど、とにかく、えらく気に入っちゃったらしいんですね」

 言いながら、安江は舟山の表情を盗み見た。
 さっきまでの勝ち誇ったような笑顔は完全に消えていた。
 ざまあみろ。

「もちろん、契約と息子の縁談なんて無関係だけど、あの常務、かなり気分屋だって有名だし、そうでしょう?」
「まあそうね」と、牧課長が顔をしかめた。「困った人ではあるけれど」
 安江は大きくうなずいた。
「そうなんですよ。で、もし、息子との縁談を進めようとしている彼女と舟山君とがつきあってるなんてことになったら――それが、あの常務の耳に入ったら、せっかくの80本の契約をひっくり返すことだって考えられないじゃないですからね。だって、当の舟山君は、アサカネの担当者なんだから」

 舟山が何か言おうとした。しかし、彼は言いかけた口のまま、その言葉を引っ込めた。
 安江は、大声で笑いたくてしかたなかった。


 
     舟山  牧課長

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