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 24:10 新橋駅
 牧 百合子
(まき ゆりこ)


     幸彦さんも、仕事ではこんな感じなのだろうか?
 百合子は夫のことを考えた。
 家では、亭主関白を気取っている。その気取りがポーズだとわかるから、今のところ大目に見て上げている。母親の手前、一家の主人である格好をしていたいのだろう。ようするに、子供なのだ。気が弱いから強がるのだし、男であることを自分自身に再確認するためにもそれが必要なのかもしれない。

「ああ、そう言えば、舟山君」安江が妙な声色で言う。「君、総務の前野って子となにかあるのか?」
「え……」

 舟山が驚いたような声を出した。
 前野――総務の前野。どんな子だっただろう。

「ほら、去年だか入ったばっかりの可愛い子さ。前野……なんて言ったっけな。髪の長い、ちょっとぷっくらした感じの」
 なんとなく安江と舟山を見比べた。気まずくなったように、舟山が目をそらせた。
「なにかって……なんですか?」
「いや、知らない? けっこう噂になってるみたいだからね」
「……うわさ?」

 よくもまあ、ゴシップのネタを探してくるものだ。
 しかも、それを本人に確認する……趣味が悪い。
 ゴシップ情報については、この安江も熱心に収集活動をするらしい。その能力があるなら、どうして仕事でそれをみせてくれないのか。

「あの子、アサカネの常務のお気に入りみたいで、この前、その常務の息子と見合いをしたらしいんだな」

 あらまあ、と百合子は小さく首を振った。
 そういう展開ですか。それはそれは、ドラマですこと。

「へえ……そうなんですか?」
 取り繕ったような声で舟山が言う。
 舟山はもちろん独身だ。堂々と誰とでもつきあえばいい。どうしてそれができないの?

「うん。先方もけっこうあの子が気に入ったらしい。ただ、あるところから、舟山君とつきあってるんじゃないかって声があってね」
「え?」

 舟山を眺めた。
 気の弱そうな視線が揺れている。

「いやいや。噂だからね」と安江のほうは面白がって言っている。「無責任に言ってるやつがいるってだけのことだと思うけどさ」
「それ……その、どうしてそんなこと」
「いや、オレは笑ってやったんだよ。そんなバカな噂を信じるんじゃないってね。だってそうだろ? もし、舟山君とその前野って子がつきあってるんだとしたら、アサカネの契約がうまくいくわけないからさ」
「…………」
「君と彼女の噂が流れてるって、知らなかった?」

 いやらしいなあ……と百合子は男たちから正面に視線を戻しながら思った。
 こういうのが会社の人間関係?
 もちろん、人が集まって仕事をしているのだ。仕事以外の交流があっていいし、むしろそれが当然のことだろう。でも、この人たちは、そういったものを仕事の中にまで持ち込もうとする。
 つまんない。

「ねえ」溜息をつきながら安江に言った。「仮に舟山君とその前野さんがつきあっていたとしても、それと契約は関係ないでしょう?」
「関係ないですよ」それは建前だ、と言わんばかりに安江は嫌味っぽく言う。「もちろん、ほんとは無関係ですよ。でも、相手があの常務でしょう。聞いたところによると、息子よりも常務のほうが積極的らしいってことですよ。前にウチの会社に来たときに、その前野って子が常務にお茶を出して、それで一目惚れっていうのかな。親父が一目惚れしてどうすんだって思うけど、とにかく、えらく気に入っちゃったらしいんですね。もちろん、契約と息子の縁談なんて無関係だけど、あの常務、かなり気分屋だって有名だし、そうでしょう?」

 百合子は、うんざりしながらうなずいた。
「まあそうね。困った人ではあるけれど」
「そうなんですよ」鬼の首でも取ったつもりでいるのか、安江はここぞとばかり語気を強める。「で、もし、息子との縁談を進めようとしている彼女と舟山君とがつきあってるなんてことになったら――それが、あの常務の耳に入ったら、せっかくの80本の契約をひっくり返すことだって考えられないじゃないですからね。だって、当の舟山君は、アサカネの担当者なんだから」

 そんなことで契約をひっくり返せるとほんとにこの人は思ってるんだろうか?
 百合子は安江を見返した。
 契約っていう意味がわかってるのかしら。


 
     安江   舟山 

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