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 24:10 新橋駅
 舟山新吉
(ふなやま しんきち)


     でも、牧課長もある意味では意地が悪いよなあ。と、新吉は思った。
 だって、今日みたいな飲み会に安江先輩を同席させるんだものな。浪内と僕の二人っていうならわかるけど、安江は恥をかくために同席してるみたいなもんじゃないか。

 ふと、気がついて、新吉は階段のほうへ目をやった。だいぶ人が増えて見通しも悪くなってきたが、ホームの端で電話に取りついている浪内の姿が見えた。

「ああ、そう言えば、舟山君」突然、口調を変えて安江が言った。「君、総務の前野って子となにかあるのか?」
「え……」
 思わずギクリとして、新吉は安江を見返した。
「ほら、去年だか入ったばっかりの可愛い子さ。前野……なんて言ったっけな。髪の長い、ちょっとぷっくらした感じの」

 横の牧課長を盗み見る。課長と目があって、新吉はその視線を外した。
 どうして、いきなり純子のことを……。

「なにかって……なんですか?」
 訊き返すと、安江はわざとらしくうなずいてみせた。
「いや、知らない? けっこう噂になってるみたいだからね」
「……うわさ」

 どうしてだ?
 だって、誰にも言っていないし、純子とは社内でもほとんど口をきかないようにしている。
 どうして、そんな噂になるんだ?
「あの子、アサカネの常務のお気に入りみたいで、この前、その常務の息子と見合いをしたらしいんだな」
「…………」

 もっとビックリした。
 純子が、見合い?
 そんな話、一言も聞いていない。純子が、アサカネの常務の息子と?
 ゴクリと唾を飲み込んだ。

「へえ」新吉は興味のない声を作って言った。「そうなんですか?」
「うん。先方もけっこうあの子が気に入ったらしい。ただ、あるところから、舟山君とつきあってるんじゃないかって声があってね」
「え?」

 牧課長と、また目があった。
 いったい、どうして……。

「いやいや。噂だからね。無責任に言ってるやつがいるってだけのことだと思うけどさ」
「それ……その、どうしてそんなこと」
「いや、オレは笑ってやったんだよ。そんなバカな噂を信じるんじゃないってね。だってそうだろ? もし、舟山君とその前野って子がつきあってるんだとしたら、アサカネの契約がうまくいくわけないからさ」
「…………」
「君と彼女の噂が流れてるって、知らなかった?」
 新吉は、首を振った。

 なんで、そんな噂が流れてるんだろう。
 誰が、そんなこと言いふらしているんだろうか。いや、だいたい、どうして純子とのことがわかっちゃったんだろう。
 それに……どうして、純子は見合いのことを話してくれなかったんだろう。

「ねえ」牧課長が安江のほうへ声をかけた。「仮に舟山君とその前野さんがつきあっていたとしても、それと契約は関係ないでしょう?」
 そう、その通りだ、と新吉は胸の中でうなずいた。
 それと契約は別の次元の話だ。

「関係ないですよ」安江がうそぶくように言う。「もちろん、ほんとは無関係ですよ。でも、相手があの常務でしょう。聞いたところによると、息子よりも常務のほうが積極的らしいってことですよ。前にウチの会社に来たときに、その前野って子が常務にお茶を出して、それで一目惚れっていうのかな。親父が一目惚れしてどうすんだって思うけど、とにかく、えらく気に入っちゃったらしいんですね。もちろん、契約と息子の縁談なんて無関係だけど、あの常務、かなり気分屋だって有名だし、そうでしょう?」
 饒舌になった安江は、課長に同意を求めた。課長がうなずく。
「まあそうね。困った人ではあるけれど」

「そうなんですよ」安江が勢いづいた。「で、もし、息子との縁談を進めようとしている彼女と舟山君とがつきあってるなんてことになったら――それが、あの常務の耳に入ったら、せっかくの80本の契約をひっくり返すことだって考えられないじゃないですからね。だって、当の舟山君は、アサカネの担当者なんだから」

 いや、だけど……と言いかけて、新吉は言葉を呑み込んだ。
 頭の中の整理がつかなくなっていた。


 
    牧課長  安江先輩  浪内 

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