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 24:10 虎ノ門-新橋
 畑美香
(はた みか)


     なにか言わなくちゃと思っても、美香の口からはなにも出てこなかった。

 何をどう言っても、嘘になってしまうように思える。
 嘉野内さんの顔を見ていると、とても気休めのようなことは言えなくなってしまう。
 そう、今はなにを言っても、嘉野内さんには気休めにしかすぎないのかもしれない。

 嘉野内さんは、美香の頭を通り越して、見上げるように視線を上げていた。
 やっぱり、嘉野内さんって綺麗な人だ。
 美香は、毅然とした嘉野内さんを見ながらそう思った。泣いていても、この人はやっぱり素敵だ。

 いったい、いつから……と、美香は思った。
 嘉野内さんは、いつから湯川さんのことが好きだったのだろう。もうずっと前からそうだったのだろうか。その気持ちを、ずっと胸の中に秘めていたのだろうか?

 まるで気がつかなかった。

 鈍感なんだから。
 と、美香は自分に腹が立った。
 そう、ほんとに鈍感もいいとこ。だって、湯川さんとみどりちゃんがつきあっていたことだって、あたしはぜんぜん気がつかなかったのだ。今日のいきなりの婚約発表には、ほんとうにびっくりしてしまった。

 そういう嗅覚っていうか、まるっきり鈍いんだなあ、あたしって。

 だけど、嘉野内さんって、こんなに純粋な人だったんだ。
 こんなに、素直に、自分の気持ちを外へ出せる人だったんだ。ずっと胸の中にしまっていた湯川さんへの思いが、婚約のことを聞いた拍子に涙になって溢れてくるなんて。
 なんだか、とっても素敵に思える。

 その嘉野内さんの視線が横に流れ、つられてそちらに目を向けて、美香はびっくりした。
「…………」
 湯川さんだった。
 湯川さんが、こちらに向かって歩いてくる。

 どうして……?

「真紀ちゃん」
 湯川さんが、嘉野内さんに向かって言った。
 なんだか、せっぱ詰まったような口調だった。

「湯川さん、あの……」
 つい、美香は言いかけた。
 ただ、その後が続かなかった。なにを言うつもりだったのか、自分でもわからなくなった。

 湯川さんが、なんのためにここへ来たのかが、美香には理解できなかった。
 だって、そんなことをしたら、もっと嘉野内さんが可哀想じゃないか。

「真紀ちゃん、いいわけはできない。でも、間違いなんだ。オレ、彼女と結婚するつもりなんてない。間違いなんだよ」

「…………」
 びっくりして、美香は湯川さんを凝視した。

 それって、いったい、どういうこと?

 嘉野内さんに、目を返す。
 嘉野内さんの頬を、また涙が流れていた。

 結婚するつもりなんてない、と湯川さんは言った。
 そう言った。
 でも、さっき湯川さんはみどりちゃんと婚約発表をしたばっかりなのだ。
 それが、どうして?

 美香は、湯川さんと嘉野内さんを見比べた。
「…………」
 ということは、心に秘めていた思いっていうんじゃないの?
 嘉野内さんと湯川さん……おつきあいをしてたってことなの?

 なんだか、よくわからなくなった。

「ごめん……」

 まるで、つぶやくように湯川さんが言った。
 嘉野内さんは、バッグを開け、ハンカチを出して涙を拭いた。
 そのまま、彼女は、くいっと首を上げて湯川さんを見つめた。

「あやまってもらう必要なんてないわ」

 そう言った嘉野内さんの声が震えていた。
 震えていたけれど、それでも嘉野内さんの言葉は毅然としていた。


 
    嘉野内
さん
  
湯川さん

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