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 24:10 虎ノ門-新橋
 嘉野内真紀
(かのうち まき)


     あたしがやめたって、会社が困るようなことはなにもないだろう。
 やめたって、きっとその翌日から、ちゃんと他の人があたしの仕事を肩代わりしてくれるだろうし。あたしでなきゃできない仕事なんて、何一つないんだから。

 ゼロックスの調子がおかしいけど、ボタンをちょっと強めに押せば支障はない。1ヶ月前にメンテナンスの人が来て見てくれたが、調子がよかったのは2日間だけだった。あとはまた逆戻り。
 でも、それだってボタンを押す加減を覚えれば、どうってことはない……。

 なに考えてるんだろう。
 ゼロックスがどうして出てくるの? あたしの仕事ってコピー取り?

 何度か企画書を書いて提出したけど、まともに取り上げてもらったことなんてほとんどない。たいてい、課長がグチャグチャにしてしまうのだ。
 改竄されまくった企画が通ったって、なにも嬉しくはない。
 あたしである必要なんて、なんにもない。

 やめちゃおうかな。

 義理で引き留めてくれる人も、何人かはいるだろう。
 だけど、その場限りだ。
 やめてしまえば、翌日からはいつもの仕事。会社なんて、そんなものだ。

 どうして涙が出ちゃったんだろう。
 一番、見せたくなかった涙。

 結局、あたしはジュンのことをなにも知らなかったのだ。
 お人好しってことよね。ジュンの本性も知らないで、楽しくて、優しくて、とってもいい人だって思いこんでた。言われたことを、なにもかも真に受けて聞いてた。

 笑っちゃう。

 不意に、目の端で何かが動いて、そちらへ顔を向けた。
「…………」
 ジュンが、こちらへ歩いてくるのが見えた。
 とっさに真紀は眼を伏せた。

「真紀ちゃん」

 電車の走行音が、ジュンの声をかき消すように響いている。
 なのに、そのジュンの声は、直接真紀の胸の中に侵入してくる。

「湯川さん、あの……」
 美香がジュンに言いかけた。しかし、言葉はそのまま途切れて騒音の中へ消えていった。

 頭が変になりそうだった。
 こらえていたものが、また、あふれ出しそうになる。それを、必死で抑えつける。

「真紀ちゃん、いいわけはできない。でも、間違いなんだ」
 そうジュンが言った途端、止めようのない涙が頬を伝って落ちた。

「オレ、彼女と結婚するつもりなんてない。間違いなんだよ」
「…………」

 真紀は顔を上げた。
 まっすぐ、ジュンを見返した。

 間違い?

 間違いって、なに?
 あなたは、あたしの目の前でみどりとキスをした。長い長いキスだった。なにが間違いなの?
 あなたは、みどりと手を握りあわせ、その手をみどりの太股の上に押しつけていた。あたしに、しっかり見ておけというように、ほとんど股の近くに手を押しつけていた。
 いったい、なにが間違いなの?

 ばかにするのもいい加減にしてちょうだい。

「ごめん……」
 ジュンが、言った。

 バッグの口を開け、真紀はハンカチを取り出した。
 そのハンカチで頬を拭い――そして、それがジュンからのプレゼントだったことに気づいた。

「あやまってもらう必要なんてないわ」

 真紀は、必死にこらえながらジュンに言った。拷問されているような気分だった。


 
    ジュン   美香 

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