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 24:11 新橋駅
 鶴見七郎
(つるみ しちろう)


     ただ、妙だと思わないでもない。

 額田会頭は、あのような変質者の存在をどうして知ったのだろう?
 雪絵の周辺に不穏な動きがあるようだ──という会頭の言葉が匂わせるものと、あの男の挙動とは、どこかチクハグな感覚を起こさせる。

「なんなのよ、あいつ」
 雪絵が怒ったように言う。
「なんでしょうね」
「…………」
 ムッとしたような表情で、雪絵が鶴見を見返した。

「不穏な動き」という言葉には、どこか個人のレベルを超えたものを思わせるのだ。個人的な恋愛感情や憎悪などとは違うもの……。
 政治的な企み──とまでは言わないにせよ、単なるストーカーに対して使う言葉ではない。

「それ、どういう意味なの?」
 言われて、鶴見は雪絵に目を返した。
「意味?」
「なんでしょうね、ってのはなによ。あなた、あたしをバカにしてるの?」
「いいえ」
 と鶴見は首を振った。
 構内アナウンスがホームに流れる。

「2番線に電車が参ります。参ります電車、浅草行の最終電車です。お乗り間違えのないよう、ご注意ください。2番線、まもなく電車が参ります。危ないですから、黄色い線まで下がってお待ちください」

「じゃあ、なんなのよ。あいつを知ってるかって聞いといて、なんでしょうはないでしょう」
 やはり、この雪絵に訊ねるべきことではなかったと、鶴見は息を吸い込んだ。
「あの男、かなり前からお嬢さんをつけ回しているようです」
「…………」
 雪絵が男のほうへ目をやった。

 男は、先ほどと変わらぬ姿勢のまま、雪絵を見つめていた。どういう意味があるのか、相変わらず頭を小刻みにふるわせている。

「かなり前って……いつから?」
「2時間ほど前にも、あの男を見ました」
「2時間──!」
 雪絵の眼が大きく見開かれた。

 不穏な動きとは、どういう意味なのか?
 その言葉は、陰で何らかの組織が動いているといったものを想像させないか?

 組織?

 しかし、そもそも、この雪絵にそんな組織を動かすような力があるのか? 雪絵は、金持ちの家に育った頭のからっぽなお嬢さんにすぎない。

 電車が到着し、周囲の人間たちが動き始めた。
 注意を男のほうへ向けながら、鶴見はガードするようにして乗車位置へ雪絵を促す。

 男から遠ざかるように距離を取りながら、停車した電車の後ろ寄りのドアへ進んだ。見ると、男のほうは先ほどとまったく変わらず、突っ立ったままやはり雪絵を目で追っている。
 ドアが開くと、女性が二人、男性が二人降りてきた。

「新橋、新橋でございます。浅草行最終電車です。2番線、浅草行の最終電車でございます」

 男は相変わらずホームに直立したような格好で、頭だけ揺らし、雪絵を見つめている。
 ドアの前を固めていた数人のグループが乗り込むのに続いて、雪絵がドアをくぐる。鶴見は、男のほうへ神経を集中しながら雪絵の後に従った。

 雪絵は、さっさと向かい側のシートの端へ腰を下ろした。鶴見は、まだホームに立っている男に注意を向けながら、彼女の隣に座る。

「警護するんじゃないわけ?」
 雪絵に言われ、え? と鶴見は首を返した。
「子守じゃなくて、警護だって言わなかった?」
「……申しましたが」
「じゃ、なんで座ってるのよ」
「…………」

 一瞬、雪絵の言葉の意味がわからなかった。
 気持ちが、電車の向こうへむいている。
 男は、ゆっくりとした足取りで中央のドアから乗り込んできた。他の乗客たちの流れを堰き止めるようにして、男は通路の真ん中でこちらを向いて立ち止まった。
 まっすぐに雪絵を凝視している──。

「なんなの、あの人」雪絵が男をにらみ返すようにしながら言う。「なんとかしなさいよ。警護するんだったら」

 いかにも、男の行動は異常だった。見方によっては挑発しているようでもある。

 ドアが閉まり、電車が動き出した。
 その途端、鶴見はギクリとしてシートから腰を浮かせた。

「…………」

 男は、身体を前のめりに傾けたかと思うと、そのまま派手な音を立てて頭から通路の中央に倒れたのだ。
 とっさに、鶴見は雪絵を男から隠すようにして立ち上がっていた。

 それは、まるで棒きれでも倒したような感じだった。人間が倒れたようには見えなかった。
 しかし、男は、何事もなかったかのように床から身体を起こし、そしてまたこちらに向かって直立の姿勢をとった。その鼻が、床の汚れをベッタリとつけているのを拭おうともせず、男は、鶴見と向かい合うようにして立っていた。
 そしてその眼は、手前に立っている鶴見を透過するようにして、雪絵を見ていた。

 こいつは、いったい……なんなのだ?

 
    変質者   雪絵 

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