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 24:12 新橋-銀座
 鶴見七郎
(つるみ しちろう)


     あいかわらず、は頭を小刻みに震わせている。
 見ると、両の拳を握りしめ、その拳もブルブルと震えているように見えた。

 怒り……?

 いかにもそのように見える。無表情だが、身体全体を震わせて、その怒りを必死で堪えているように見えなくもない。

 いったい何者なのだ?
 雪絵は、あいつのことは知らないと言った。嘘かもしれないが、雪絵の表情を見た限り、嘘を言っているようには思えない。

 チョンチョンと腰のあたりをつつかれて、鶴見は後ろを振り返った。座ったままの雪絵が、眉をひそめるようにして鶴見を見上げた。

「なんなの?」
 鶴見は、もう一度男のほうを振り返り、そして男に目を据えたまま雪絵の横へ腰を下ろした。
「よくわかりません」
「……わからないって、なによ」
 言いながら、雪絵は、ピシャリと鶴見の腿のあたりを叩いた。そちらへ目を返す。

「なんとかしたらどうなの? 警護するためにいるんじゃないの? なに座ってるのよ」
 男の存在を知らせたのは、つくづく失敗だったと鶴見は思った。
「あいつの目的がわかりません。妙な男ですが、何をしたというわけでもありません」
「バカじゃないの?」
「…………」
 言われて、鶴見は雪絵に目を返した。

「じゃなに? あいつが何かするまで待ってるってことなの? 呆れちゃうわね」
 鶴見は溜め息をついた。
「何かされる前にやることってないわけ? ずっとあたしを見てる。気持ち悪い。何かされてからじゃ遅いじゃないの」

 鶴見は、もう一度、男のほうへ目をやった。男は同じ格好のまま、雪絵を凝視している。
「他の乗客のことも考えなければなりません」
「……ほか?」
「確かに、危険な雰囲気を持った男だと思います。だからこそ、慎重でなければなりません」言葉は雪絵に聞かせながら、目は男に据えている。「何かの拍子に暴れ出す可能性だってあります。しかし、ここは走行中の地下鉄の中です。下手なことをして、他の乗客に迷惑がかかってもまずい」
「…………」

 鶴見の言葉を理解したのか、あるいはふて腐れたのか、雪絵が口を閉ざした。その両方かもしれない。

 しかし……と、鶴見は、男を見つめた。
 こいつの目的はなんなのだ?

 ストーカーかもしれないとは思ったが、これほどあからさまな行動に出るストーカーというのがいるものだろうか?
 そういうヤツは、陰に隠れてこそこそとしているものではないのか?

 横にいる鶴見のことは、一切目に入っていないような様子も、また異常だった。鶴見のほうも、かなりあからさまに睨み返しているのである。なのに、鶴見のほうはチラリとも見ない。
 目が合わせられないといった感じではない。完全に無視している。あの男にとっては、鶴見など、存在していないとしか思えない。雪絵の前に立ち塞がり、男の視線を遮っても、あいつはまるで鶴見を透過するようにして雪絵のいる位置に視線を固定していた。

 狂っている……。

 こいつが、額田会頭の言われていた「不穏」の正体なのだろうか?
 どうも、ピンとこない──。

 会頭から「雪絵を警護しろ」と言われたとき、漠然と鶴見が思ったのは、雪絵の誘拐を企んでいる組織でも存在するのではないかということだった。
 目に入れても痛くないほどかわいがっている孫娘が誘拐されれば、どのような理不尽な要求でも聞かざるを得ない立場に立たされてしまうのではないか。
 そして、世の中に、雪絵ほど誘拐しやすい女はいないと思われるのだ。毎日フラフラと遊び歩き、簡単に男と関係を作ってしまう。ほとんど馬鹿だ。

 しかし、これから雪絵を誘拐しようと企んでいる男が、その標的を睨みつけたまま動かないというのも解せない。
 あの男のやっている行動は、相手に危険信号を送り続けているようなものではないか。
 つまり、脅しているとしか思えないのである。

 脅し。威嚇──いったい、なんのための威嚇なのか? どんな種類の脅しなのか?

「まもなく、銀座、銀座です。日比谷線中目黒行、丸ノ内線池袋行、新宿行はお乗り換えです」

 車内アナウンスに、ふと目を上げた。

「次の銀座で降りましょう」
 鶴見は、雪絵を振り返って言った。
「銀座で……?」雪絵が、訝しげに訊き返す。「なんで降りるの? 赤坂見附まで行くんだって言ったでしょう」

「車で参りましょう。どうもあの男は気に入りません。この電車の中では、適切な行動も難しいのです」
 ふん、と雪絵は、鼻を鳴らすようにして目をそむけた。
 しかし、次で下車することを拒否もしなかった。
 おそらく、雪絵自身も、あの男から離れたいと思っているからなのだろう。

 
         雪絵 

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