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 24:12 新橋-銀座
 額田雪絵
(ぬかた ゆきえ)


     男と雪絵の間には鶴見が立ち塞がっている。電車の揺れが鶴見の身体を右へ左へ振らせ、その一瞬、男の姿が見えたりする。男の眼は、じっと雪絵を見つめ続けていた。

 普通じゃない。

 男に見つめられたことは、何度もある。男に見つめられるのはべつに厭じゃない。子供のころから、いろんな視線が雪絵を見ていた。学校の同級生の男の子であったり、家を訊ねてきた父親の知り合いの大人だったりもした。
 しかし、あの変態のような見つめ方をされたことは今まで一度もなかった。
 虫酸が走る。

 いつまでも前に立っている鶴見が鬱陶しくも思えて、雪絵は彼のジャケットの裾のあたりをつついた。鶴見が振り返る。見おろしてくる鶴見の表情にもゾッとした。

「なんなの?」
 訊くと、鶴見は、雪絵から男のほうへ視線を戻し、そのまま横へ腰掛けた。
「よくわかりません」
 そっぽを向いて返事をする。それにも腹が立った。鶴見の腿をパシンと叩いた。
「わからないって、なによ」
 鶴見が振り返る。

「なんとかしたらどうなの? 警護するためにいるんじゃないの? なに座ってるのよ」
「あいつの目的がわかりません。妙な男ですが、何をしたというわけでもありません」
「…………」

 呆れてしまった。
 何をしたというわけでもない?

「バカじゃないの?」
 言ってやると、鶴見はこちらへ顔を向けてきた。
「じゃなに? あいつが何かするまで待ってるってことなの? 呆れちゃうわね」
 無表情に、鶴見は雪絵を見つめる。
 変態男に見つめられ、おまけにこの鶴見にも見つめられ、とんだ災難だ。

「何かされる前にやることってないわけ? ずっとあたしを見てる。気持ち悪い。何かされてからじゃ遅いじゃないの」
 言うと、鶴見はまた変態男のほうへ目をやった。
「他の乗客のことも考えなければなりません」
 抑揚のない低い声で鶴見は言った。
「……ほか?」
「確かに、危険な雰囲気を持った男だと思います。だからこそ、慎重でなければなりません。何かの拍子に暴れ出す可能性だってあります。しかし、ここは走行中の地下鉄の中です。下手なことをして、他の乗客に迷惑がかかってもまずい」

「…………」

 ほんとうにひっぱたいてやりたいと思った。
 他の乗客の迷惑などときれいごとを言っているが、つまり、あの変態に向かっていく度胸がないということじゃないか。

 鶴見も、頭は空っぽだが、図体だけは大きい。よくは知らないが、柔道とか剣道の心得ぐらいはあるのかもしれない。
 しかし、その鶴見に輪をかけたように、あの変態男は体格がいいのだ。見るからに強そうだ。

 でも、それがなんだと言うのだろう。
 警護のために煩くつきまとっていたのではなかったのか。にもかかわらず、自分よりも強そうな相手に出会うと、簡単に尻尾を巻いてしまうのだ。

 とんだ役立たずだ。
 お祖父ちゃんから命令されて、監視役を引き受けたというものの、本当に守らなきゃならないような事態が起こった途端、どうしたらいいかわからなくなって尻込みしてしまう。

 最低の男だ。

 雪絵は、バカバカしくなって鶴見からも変態男からも目をそむけた。
 どうして、こんな最低の男たちに挟まれていなきゃならないのか、自分がここに座っていることすら信じられなかった。

 だいたい、なんで地下鉄なんかで移動しようと思ったのだろう。地下鉄なんて大嫌いなのだ。うるさいし、汚いし、臭い。
 そう。これも鶴見のせいだ。
 車を拾おうとしたら、この男が、勝手に手を上げ、タクシーを停めた。開いたドアの脇で、雪絵が乗り込むのを待つようにして立っている姿を見て、厭になって脇にあった地下鉄の階段を下りたのだ。
 鶴見と二人でタクシーのシートに座るなんて、思っただけでゾッとする。

 チラリと横の鶴見を見ると、彼は同じ姿勢のまま、変態男のほうを眺めていた。
 変態男は、相変わらず雪絵を見つめている。首を細かく振りながら、気味の悪い眼でじっと見ている。
 また、溜め息が出た。

「まもなく、銀座、銀座です。日比谷線中目黒行、丸ノ内線池袋行、新宿行はお乗り換えです」
 アナウンスの声に、鶴見が、突然雪絵を振り返った。

「次の銀座で降りましょう」
「銀座で……?」
 眉を寄せて鶴見を見返した。
「なんで降りるの? 赤坂見附まで行くんだって言ったでしょう」
「車で参りましょう。どうもあの男は気に入りません。この電車の中では、適切な行動も難しいのです」

 逃げるってわけか……と、雪絵は鶴見から顔をそむけた。
 まあ、弱虫ガードマンには、一番似合った対処法だわね。それに、この男は、どうしてもあたしと一緒にタクシーに乗りたいらしいから。


 
     鶴見   変態 

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