前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 落合綾佳
(おちあい あやか)


    3つとも、解いてしまった……。

 なんとなく、気持ちが軽くなって、綾佳はパズ研の問題をあらためて眺めた。ちょっと手伝ってもらったことはたしかだけど、でも、解いちゃった。

 どうだ、パズ研。まいったか。

 どーせ、ひとつも解けないだろうなんて、見くびってやがっただろ、お前。女の子には、こんなの解けるわけがないなんて、なめてやがっただろ。まるでわからないような難しい問題をボク、作っちゃうような人なんですよなんて、いい気になってやがっただろー。
 思い上がってんじゃないわよ。こんなの、チョチョイのチョイよ。

 わはははは、と笑ってやりたい気分だった。
 あのパズ研を呼び出して、解答を書いたこの紙っ切れ見せて、土下座させてやりたい気分だった。

「でも、あなた、すごいですね」
 隣の男に言われて、綾佳は、え? と彼を見返した。
「いや、失礼なのかな。こんなこと言うのは」
 慌てて、綾佳は首を振った。
「べつにそんなことないです。暇だったから、ちょっとやってみてただけですから」

 いやいや、というように男は微笑みながら頭を振った。
「ちょっとやってみたぐらいで解けるような問題じゃないですからね、それ。失礼ですけど、学生さんですか?」
「……あ、はい」
「優秀だなあ。いや、びっくりしました」
「そんなこと──」

 照れてしまった。
 こんなに、人からほめられたことなんて、初めてだ。しかも、電車で隣り合わせただけの見ず知らずの男から。
 もちろん、ほめられて嬉しくないわけはない。でも、こんなにあからさまにほめられてしまうと、なんだかとってもくすぐったい。

「そういうのって、流行ってるんですか?」
「そういうの……あ、これ?」
 と、綾佳はパズ研の問題を膝の上から取り上げた。
「べつに、流行ってるわけじゃないです。知り合いがパズ研──パズル研究会の人が作ったのを、解いてみないかって渡されただけなんで」
「へえ。パズル研究会か。面白そうですね」
 くふふ、と綾佳は、なんとなく笑ってしまった。

 まあ、たまにやるなら、こういうのも頭の体操になっていいかもしれないが、あのパズ研は、年がら年中こんなことやってるんだ。
 面白そうって言うより、不気味でしょー。

 でも、この人も……と、綾佳は、チラリと隣の男を見た。
 こういうのを面白いって思うんだとしたら、ある意味、この人もパズ研と同類ってことになるんだろうか。
 あたしって……そんなにこの手の男から気に入られちゃうようなタイプなの?

 なんか、それって、びみょーだなあ。

 以前、学祭で、アニメ同好会のブースを覗いたときのことを思い出した。なんというか、あれは異様な光景だった。
 そろいも揃って、アニ同の連中は無駄に太ってるヤツばっかりだった。しかもメガネかけてる。甲高くて、それでいてボソボソと落ち着かない声で喋る。その喋ってることが、ほとんど意味不明なのだ。
 あの作品の第何巻に出てくるナントカってキャラはどうのこうの。実は、あのキャラは別作品のナニナニにも登場していて、その時は悪役だった、とか……なんだよ、それ?
 意味不明な、およそどーでもいいことを、延々と得意気に喋り続けるのだ。
 あまりにも気持ち悪くて、5分かそこらで逃げ出した。

 まあ……パズ研だとか、この隣の男の場合は、あそこまで異人種という感じがするわけじゃないが、でも、四捨五入すると同じ部類になっちゃうんじゃないかって気がする。

 あたしって、そういうのを惹きつけちゃう人なの?

 ちょっと違うのがいいなあ。
 できれば、野球とかサッカーとかやってる人でさ、それも知的なプレーをするような、イケメンの男で。
 それでいて、1人でいるときは、どこかに寂しげな雰囲気なんか漂わせちゃって、どうしたの? なんて訊くと「べつに。メシでも行く?」とか言って、あたしの返事も待たずに、もう2メートルぐらい先を歩き始めてる。「待ってよー」とか、あたしが追いかけると「お前、遅いんだよ。歩くの」なんか言われちゃって──。

 突然、女性の悲鳴が聞こえ、綾佳はギョッとして顔を上げた。
「え……?」
 電車のウインドウの向こうに、とんでもないものが見えた。
 思わず、綾佳はシートから立ち上がった。

 それは、ぼうぼうと火を吹き上げながら燃えている男性の姿だった。男の人が、全身炎の固まりになって狂ったようにジタバタしている。

 隣の男も、立ち上がってその男のほうを見ていた。

 アニメ同好会の連中のことなんか考えていたために、こんな幻覚を見ているのかと、ついそう思ってしまった。
 しかし、見ているのは幻覚でもなんでもない。つい数メートル先のホームで、男が火だるまになって転げ回っているのだ。

「…………」

 ホームって、どこの駅?
 綾佳は、とっさに自分のいる場所がわからなくなった。

 えーと、たしか、さっき京橋に着いてたんだから、てことは、日本橋……じゃなくて、逆か。銀座?

 え? 銀座って、東京のド真ん中なのよ?
 つまり、日本のド真ん中じゃないの。そんなとこで、どうしてこんなことが起こってるわけ?
 ウソでしょー?
 わけわかんないよ。なんなの、これ?

 なんだか、喉がカラカラに渇いていた。
 あまり得意でもないのに、焼酎割りなんか飲んだのがいけなかったのだ。ウーロン茶が飲みたい。冷たいウーロン茶が飲みたい。

 ホームも、電車の中も、どこか別世界のように見えた。
 男が全身火だるまになって転げ回っている。それを消そうとしている人たちがいる。ぐわんぐわんと、音が鳴っている。その音が、どこから聞こえているのか、綾佳には判断がつかなかった。実際に鳴っているようにも思え、耳の中だけで鳴っているようにも感じた。

 ふと隣を見ると、男がデジカメを構えてホームのほうへ向けていた。
 ああ、こういうのは記録しちゃうんだ……。
 なんとなく感心してしまった。
 気がつくと、ホームにもカメラを構えてシャッターを切っている男たちの姿が見える。
 その彼らの姿が、一瞬にして真っ白な光でハレーションを起こした──。

 眼が変になったと思ったが、その次の瞬間、とてつもない轟音と熱波が綾佳を襲ってきた。
 なにもわからず、声を上げる間もなく、綾佳は意識を失った……。


    隣の男  燃えている
男性

   前の時刻 ……