前の時刻

  

 24:13 銀座駅
 尾形将仁
(おがた まさひと)


     車内は空いていたが、どこへ座るべきか迷った。通路の真ん中でカオルを振り返る。彼女は、尾形の斜め前あたりで立ち止まった。シートを探すような気配もみせなかった。

 まあ、なにか話をするにしても、隣に人がいてはしづらいよな。
 なんとなく座るタイミングを逸して、尾形は脇のパイプをつかんだ。
 組織……。

 また、その言葉を口の中で繰り返した。
 やっぱり、ヤクザのようなのが後ろについてるんだろうか。
 そう思いながら、カオルを眺めた。ノースリーブではあるが、そういう種類の女だと一目でわかるような服装はしていない。むしろ、どこにでもいる普通のお嬢さんといった感じに見えた。もっとも、尾形が〈そういう種類の女〉の服装を知っているわけではなかったが。

「メンバーの人たちって、何人ぐらいいるんですか」
 なにを話してよいものか見当もつかず、尾形はそんな質問をした。
 その質問に、カオルは困ったような表情で尾形を見返した。してはいけない質問だったのか……と、尾形は後悔した。それはそうかもしれない。組織のことなど、話すわけにはいかないだろう。

「私を含めて6人です」
「…………」
 それが多いのか、少ないのか、尾形にはよくわからなかった。つまり、カオルが答えたのは、組織に所属している女性の数なのだろう。少ないようにも思えたが、案外そんなものなのかもしれなかった。あるいは、それが全員ではなく、現在待機している女性の数が6人だということなのかもしれない。

「行き先を……」
 と、カオルが言い、尾形は彼女に目を返した。
「行き先を教えていただいてもいいですか」
「…………」

 つまり、どこで〈仕事〉をするのか、聞いておきたいということだろう。何度もこういうことをしている男なら、ホテルの候補ぐらいいくつも持っているのだろうが、尾形にはそんなものはなかった。
 ラブホテルというのが普通なんだろうか……。
 しかし、生まれてこの方、その種のホテルには入ったことがない。なんとなく、恐怖感のようなものがあった。出入りの際に、どういう顔をすればよいのかわからない。
 かといって、仕事で使ったことのあるホテルなどは論外だ。誰かと鉢合わせしてしまったら、どうにも言い訳できない。

 カオルが、尾形を見つめながら返事を待っていた。
 ふと、その視線を駅のホームのほうへそらせた。

「普通のシティホテルなんだが、かまいませんか」
 慌てて言うと、カオルは口許を引き締めるようにして、小さくうなずいた。
 ちょっと、ホッとした。

 渋谷にある、普通のホテルでいいだろう、と尾形は思った。渋谷のホテルを商談に使ったことはないし、尾形自身、利用したこともない。たしか、駅からそれほど離れていないところにも、小洒落たホテルがあったような気がする。

 ホテルという言葉を口にして、また動悸が激しくなってきた。なんとなく、そこでこれから行なわれることに想像がいく。
 思わず、また唾を呑み込んだ。

 なにか話をしたほうがいいのだろうか、と尾形は不安になった。いくら商売だといっても、彼女だって楽しい相手のほうが和んでくれるのではないか。このテのことを、あまり事務的にやられてしまっては楽しくない。
 しかし、話題といっても……。

「カオルさんは、僕が知っている人によく似ているんですよ」
 え? と、カオルが尾形を見返した。
「いや、1度会っただけの人を、知ってる人というのもおかしいかもしれないけど、美人で、ずっと面影が残ってるんです。その人に、よく似てると思ったから、ちょっと不思議な気持ちがした」
「…………」

 あまり、いい話題じゃなかったかもしれない。あなたは綺麗だ、と単純に言ったほうがよかっただろうか。

「その人って……やっぱり私と同じように?」
 いやいや、と尾形は慌てて首を振った。
「違いますよ。素人です」
「どうして、そんな──」
 とカオルが訊き返したとき、ホームでなにか大きな音が聞こえた。続いて「キャーッ!」と女性の悲鳴が響き渡った。

 ギョッとして、尾形はそちらへ目をやった。そこで目にしたものが、さらに尾形を驚かせた。

「…………」

 なんと、ホームの中央で、が火に包まれて立っていた。
 身体から炎を立ち上らせ、それを消そうと暴れ回っている。

「なんだ、あれは……?」
 言いながら、尾形はカオルに目をやった。
 カオルは両手で口を押さえ、眼を見開いて男のほうを凝視していた。

 信じられない光景だった。
 男は、火だるまになったまま、ホームの床に倒れ、火を消そうと転げ回っている。なにが起こっているのか、まるで見当もつかなかった。

「どういうことだ」
 言いながら、カオルの腕をつかんだ。柔らかい腕だった。
 え、と慌てたように、カオルが首を振った。

「違います。私もわかりません。私とは関係ありません」
 ブルブルと、首を振り続ける。
 その彼女の怯える様子が異様だった。

「違う? なにが違うんだ? 関係ないって、どういうことだ?」
 訊いてもカオルは首を振るばかりで、なにも答えなかった。

 カオルの腕をつかんだまま、尾形はホームに目を戻した。
 転げ回っている男に飛びかかるようにして、2人の男が上着を叩きつけながら火を消そうとしていた。

 カオルの言ったことが、尾形は気になって仕方なかった。
 私とは関係ない、と彼女は言った。関係ないのは当たり前のことだ。それなのに、どうしてそんなことを言うのか? 逆に、まるで関係があるみたいではないか。

「…………」
 ホームで起こっていることと同様に、尾形には、このカオルと名乗った女が不気味に思えてきた。
 彼女の腕をつかんだままであることに気づき、尾形はその手を離した。それを待っていたかのように、カオルは電車から飛び出した。
 その彼女の姿が、一瞬にして消えた──。

 尾形の視界が強烈な光で覆われた。なにがどうなったのかまるでわからないまま、尾形の身体の中ですべての細胞が沸騰した。
 一瞬の後には、尾形は跡形もなく蒸発していた。


 
    カオル     

   前の時刻 ……