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 page 1トリニティ〔 page 2/3 〕

 その日以来、鈴子は満奈実の家で奈帆の姿を見ることがほとんどなくなった。鈴子がやってくる昼間も自分の部屋で眠っているようだった。鈴子はハヤシライスやクリームシチューなど、奈帆の好物を作り、いつ起きても食べられるように冷蔵庫に用意した。けれど、その食事には手をつけてすらいないことも多かった。ある日洗濯機から乾いた洗濯物を取り出し、籠に入れ、リビングに戻ったときのことだった。掃き出し窓が開きカーテンが揺れているのが目に入った。あら私が開けたままだったかしら、と顔を上げると、ベランダにスエット姿の奈帆がいる。のどの奥が詰まった。奈帆は手すりに手をかけ軽く体を揺らしている。
 奈帆は気晴らしに外に出てみただけよ。自分に言い聞かせ掃き出し窓に近づいた。けれど、ここは八階だ。万一驚かせて奈帆が飛び降りるようなことがあれば命はない。息を殺し音を立てないようにカーテンを開け、奈帆の後ろから背中をそっと抱きしめた。奈帆の驚きが鈴子の体に伝わる。骨の感触が頬にあたる。鈴子は思う。こんなに痩せた子だったかしら。
「奈帆……」
 背中を抱きしめたままそう言うと、奈帆の体が波打って、うっ、うっ、うっ、と泣き声が漏れる。奈帆が泣き崩れベランダにしゃがみこんだ。鈴子は右腕で奈帆の体を覆うように抱く。サンダルすら履いていない奈帆のピンク色のペディキュアが無残に剥げたままになっている。
「大丈夫よ、大丈夫だから」と鈴子は繰り返して言うしかなかった。
「おばあちゃん、なんで私なにもかも、うまくいかなくなっちゃったの」
 リビングのソファに座らせると、奈帆はしゃくり上げて子どものように泣いた。
「ずっとうまくいってた。ずっとうまくいくと思ってた。だけど、就活からおかしくなって。それからぜんぜんうまくいかないの。私、ずっと努力してきたよ。ずっと頑張ってきたの。なのになのに、なんで」
 鈴子は奈帆の隣に腰掛けると、奈帆の背中をさすり続けた。掃き出し窓の鍵が閉まっているのを目で確認してから立ち上がり、キッチンでココアを淹れた。

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 奈帆にマグカップを持たせ、飲むようにと目で促す。奈帆はマグカップに口をつけ、すするようにココアを口にした。奈帆の言葉に返す言葉がなかった。高校を出てから結婚するまでの会社での六年間、今の奈帆のように仕事を頑張ってきた、とはとても言えない。毎月お給料をもらって、新しい洋服や靴が買えるのがうれしかった。週末には映画に出かけ、帰りにクリームソーダを飲んだ。そんなことを楽しんでいるうちに時間は過ぎた。そろそろ結婚をする時期だからと、まわりにお膳立てをされ、特に嫌いな相手でもなかったから結婚した。主体的に何かを選んできたわけではない。ベルトコンベヤーに流されるように生きてきて今がある。むしろ、奈帆の相談は、結婚をしても出産をしても仕事を投げ出さなかった満奈実になされるべきものなのではないか。
「お母さんに相談してみた?」
 奈帆はしばらくの間黙ったままマグカップをじっとみつめ、その縁を親指でぐいっと拭った。奈帆が首をふる。
「できない。お母さんみたいに私は強くないし」
 そう言う奈帆の目から涙が一粒こぼれた。
「お母さんみたいに私は優秀じゃないもん。私はお母さんみたいに仕事ができない」
 奈帆の顔が崩れ、また泣き始める。奈帆が満奈実についてこんなふうに考えていることをそのとき初めて鈴子は知った。
「そんなに嫌なら仕事やめて結婚でもすればいいじゃない。私だって」
「……おばあちゃん」
 奈帆が鈴子の顔をじっと見つめる。
「おばあちゃんにこんなふうに言いたくないけど、専業主婦になれる人なんてごくわずかだし、専業主婦でいたいなんて言う女の人と結婚したがる人、今はあんまりいないんだよ。おばあちゃんの若いときとは時代がぜんぜん違うの。……私なんて運が悪いんだろう。こんな時代に生まれてきて。自分が入りたい会社にも入れないで」
 奈帆の言葉に返せる言葉はなかった。また専業主婦か、と鈴子は思う。なぜいつも仕事をしていない女は同じ女から標的にされるのか。そもそも自分が生まれてきた時代がいいか悪いかなんて考えたこともなかった。それが奈帆の言うようないい時代に生まれてきたということの証なんだろうか。奈帆が自分に向けて放った、こんな時代、という言葉から、鈴子の頭のなかにはこれまで生きてきたさまざまな場面がシャッフルされ、鮮やかに蘇っていた。
 戦争が終わった年に生まれてきた自分。けれど、幼い頃には街角に傷痍軍人の姿がまだあった。傷痍軍人なんて言葉、奈帆は聞いたこともないだろう。東京下町の、佃煮屋で鈴子は成長した。幼い頃の記憶には醤油を煮詰めたにおいと店のすぐそばを流れていたどぶ川のにおいがまとわりついている。母は優しい人だったが、父は気性が荒かった。お酒が入ればなおのこと、子どもたちが気にいらないことをすれば、すぐに頭を殴られた。けれど、虐待されたなんて思ったこともない。近所のどの家も同じようなものだった。
 洗濯機、テレビ、掃除機、ステレオ。そんなものが家のなかに増えていくたびにわくわくした。銀座の会社で、最先端の雑誌をつくる現場。そこで出会った最先端の人々。何をしたわけではないのに自分も時代の空気を作っているのだという実感があった。東京オリンピックの歓声。確かに日本は未来に向かって力強く歩んでいた。奈帆くらいのときには夢しかなかった。こんな時代に生まれてきて、などと思ったことはなかった。そう思ったことがないほど自分は恵まれてきたのかもしれないと、そのとき鈴子は初めて思った。
 それ以上につきつけられたのは、奈帆がこれほどまでに追い詰められているという事実だ。
「そんなに頑張ってきたのなら少しくらい休んでもいいじゃない。今の会社と奈帆の相性だってあるかもしれないよ」
「おばあちゃん」
 奈帆が声を荒らげる。
「鬱だって言われたんだよ私。休職してる暇なんかちっともないのに。働かなくちゃいけないのに。どんどん人から遅れていく。どうしたらいいの」
 言い終わらないうちに奈帆の呼吸が荒くなる。はあ、はあ、と肩で息をし、苦しそうに顔をしかめる。これが過呼吸の発作なのだろうか。
「奈帆、奈帆、救急車呼ぼうか」
「大丈夫、しばらく、このままにしていたら治るの。おばあちゃん、大丈夫だから」
 奈帆はソファに横になり浅い呼吸を繰り返している。鈴子はその体をさすり続けた。奈帆は鈴子の手をぎゅっと握りしめている。鈴子がこの家に来ないとき、奈帆はこんな発作に一人で耐えてきたのだろうか。仕事中の満奈実に助けを呼んだとは思えない。
 幼い頃から「ママは仕事だからね」と鈴子が話せば、すぐに納得する子どもだった。そのものわかりのよさを生まれ持った性格の良さだと理解してきたけれど、ほんとうは母親に甘えたい心を押し殺してきたのではないか。
 十分ほど横になると奈帆の呼吸は落ち着いてきた。
「奈帆、おばあちゃん、明日から奈帆の面倒をみるわ」
「えっ」
「今までは満奈実を手伝ってるつもりだったのよ。満奈実が大変だろうと思って。だけど、今度は奈帆の番だ。奈帆がゆっくり休めるようにおばあちゃんが手伝う」
「だって」
「おばあちゃんの時間なんていくらだってあるんだから。だけどね奈帆、約束してくれる。少し休んで、少し元気になったらでいいのよ」
 うん、と奈帆は言葉に出さずに頷いた。
「おばあちゃんの遊びにつきあってくれる? ううん、大げさなことじゃないのよ。美術館に行くとか、デパートに行くとか、東京じゅうに行きたいところがあるのよ。体が動くうちにね。おばあちゃん一人で寂しいんだもの。満奈実は仕事で忙しいし、奈帆が時間のあるときにつきあってくれたらうれしいんだけど」
 鈴子も必死だった。実際のところ、ベランダから飛び降りようとした奈帆を見張るために毎日この家に通うのだ。それを奈帆が負担に感じないようにどう言えばいいのか。美術館だってデパートだって、行きたいところがあれば一人でどこにでも行く。小さな嘘は悩み苦しんでいる孫のためについた。
 奈帆はしばらくの間考える顔をしていたが、それでも鈴子の顔を見て小さな声で「うん」と返事をした。奈帆はもう立派な大人なのにその声があまりに幼く聞こえて胸が詰まった。
「おばあちゃんといっしょに遊んでよ。どうせ仕事が始まれば奈帆は遊んでいる暇なんてないんでしょう。だったらいいじゃない少しくらい」
 自分の言葉に奈帆が納得したとは思えなかった。けれど、自分を見守っている人間がそばにいるのだということを奈帆に伝えたかった。
 鈴子は翌日から満奈実の家に通いつめた。満奈実だけでなく、彼女の夫もまた仕事に忙殺されていた。満奈実が仕事で家を出るくらいの時間に到着し、帰ってくる時間まで奈帆を見張っているつもりだった。家事をしていても奈帆がベランダに出ないように注意深く見守った。満奈実の家に通い始めてしばらくの間、奈帆はトイレ以外で部屋を出てくることはなかった。それでも時間が経つにつれ、ソファに座った鈴子を見ては、一言二言、何かを言って、自分の部屋に戻っていく。「晩ご飯なに?」という今までの奈帆から聞いたことがないようなぶっきらぼうな一言でもうれしかった。
 二週間に一度は心療内科に出かける奈帆につきあった。服を着るのもだるそうな奈帆に赤ん坊のように靴下を履かせ、くしゃくしゃの髪をといた。病院はマンションから歩いて十分ほどの距離にあったが、寝ているばかりで体力が落ちているのか、奈帆はそこまで歩いていくのもだるそうだ。少し歩いては休み、呼吸を整えて、また歩きだす。何よりもマンションの外に出かけていくのがつらそうだった。マスクで顔を隠し、エレベーターやエントランスで同じマンションの人に出会うと顔を背けようとする。奈帆の代わりに愛想良く挨拶をするのは鈴子の役目だった。
 心療内科の診察室には奈帆が一人で入っていく。奈帆がいっしょに来てほしいと言うのなら同室するつもりだったが、奈帆は一人で治療を受けたいようだった。二、三十分もすると赤くなった目をこすりながら診察室から出てくる。何を話しているのか聞きはしなかったが、来たときと比べると幾分かはすっきりとした顔をしている。診察を終え、処方薬局で薬を受け取ったあとは、そのままマンションに帰らず、短い時間散歩をしたり、ファミレスによって甘いものを食べたりもした。診察で疲れてしまうのか、外出中の奈帆はぐったりした顔をしていたが、外に出たほうが口数も自然に増えてくるようだった。そうやって、数カ月が過ぎた。

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 鈴子といっしょに遊ぶ、という当初の目的はまだ果たされていないが、最近は少しずつ体重も増えてきたようだし顔色もいい。もう少し温かくなってきたら、奈帆をもっと遠くに、自宅と病院以外の場所に連れだそう。そう考えていたときだった。
 早川朔がいる斎場に向かうつもりで喪服を着てきた。奈帆の家に向かいながら鈴子は考える。早川朔がいるという斎場に奈帆を連れて行ってはどうかと。満奈実の家に着くと部屋から奈帆が顔を出した。部屋に閉じこもっていた時期を過ぎて、今では鈴子が来るのを待っているようにも見える。
「何、今日、お葬式?」
 喪服姿の鈴子を見て奈帆が言った。
「おばあちゃんの知人なのよ。イラストレーターの早川朔って、奈帆、知ってる?」
 奈帆はしばらくの間考えていた。
「……ああ、ログストアの就職試験のとき、その人の名前出てきたよ。ずっと昔、『潮汐ライズ』の表紙を描いていた人でしょう。その人がどうしたの?」
「亡くなったのおととい。お葬式はしないみたいなんだけどね。今日なら斎場でお顔が見れるって、今朝、電話があって。杉並なんだけど。奈帆、いっしょに行ってくれないかしら」
「えっ」
「その斎場に行ったことはあるんだけど、一人で行くのは少し心配なのよ。だから奈帆についていってもらえると助かるんだけど」
 寝間着代わりのグレイのスエットを着てソファに座ったまま、奈帆は考えこんでいる。
「そのお葬式にログストアの人がいても、就職試験を受けにきた学生の顔なんて誰も覚えてないよね」そう言って奈帆は鈴子の顔を見る。
「そうねえ、早川さんのお知り合いがたくさん来るだろうから……誰も私と奈帆の顔なんか気にとめないわよ」
「わかった」と言いながら奈帆は立ち上がる。
「私もそろそろ、外出のリハビリしたいと思ってたし。だけど、マスクはしていてもいい?」
「もちろんいいわよ」
 うん、と声に出さずに奈帆は頷き、部屋に入って行った。ほんの少しだけ早川朔の顔が見られればそれでいいのだ。朝突然もらった電話から時間は経っているのに、不思議なほど悲しいとか、残念とか、そういう気持ちは湧いてこなかった。けれど、最後の挨拶をしておかないと、自分が後悔するような気がした。登紀子は来る、とは言ったけれど、会えても会えなくてもどちらでもよかった。むしろ、会ってしまったら、あのときお金を渡したように何かしらやっかいなことに巻き込まれるのではないか、というかすかな不安があった。
 喪服に着替えた奈帆が部屋から出てきた。鈴子は家でメモしてきた斎場の住所を奈帆に渡すと奈帆が自分の携帯を操作する。何を見ているのかわからないが、奈帆はだいたいの場所や斎場までの乗り換えは把握できたようだ。
「ここからそんなに遠くもないよ。だけどおばあちゃん」
「ん?」
「私、電車に乗るのが久しぶりだから、すっごく緊張してるの」
「うん」
「薬ものんでるし、ひどいことにはならないと思うけど、もし途中でだめってなったら、おばあちゃん一人でも大丈夫、かな」
「わかった」そう言いながら、鈴子はコートを着た奈帆の肩のあたりのほこりをやさしく手で払った。
 最寄り駅から地下鉄に乗り、永田町で乗り換えて、再び地下鉄。渋谷まで行って私鉄に乗り換え。急行で二駅。そこから斎場までタクシーで行こうと思っていた。渋谷まで二十分もあれば着いてしまう。それでも奈帆の体を気遣って早めに家を出ることにした。地下鉄の駅の入り口で奈帆はほんの少し立ち止り、地下に続いていく階段を見下ろしている。意を決したように奈帆は鈴子の顔を見、銀色の手すりに手を添えて階段を下りていく。
 地下鉄の車内はそれほど混雑していなかった。鈴子と奈帆は空いている席を見つけ並んで座った。マスクで顔の半分ほどを覆った奈帆の表情はわからないが、目をつぶり、じっと何かに耐えているようにも見える。まるで祈っているかのようにバッグの上で組んだ奈帆の手を鈴子はそっと撫でた。奈帆の気分が悪くなるようなことがあればすぐにでも電車を降りるつもりだったが、地下鉄を乗り換えたあとも奈帆はつり革に摑まり、コートの上からでもわかる痩せた体を電車の揺れに任せていた。
 なんとか渋谷までたどりつき、地下道を通って私鉄乗り場まで歩いた。平日の昼間なのに、地下道は人が多く人の流れも速い。
「大丈夫?」
 奈帆に聞くと無言で頷く。何度か鈴子の体に後ろから追い越していく人たちのバッグや荷物がぶつかったが、あやまる人は誰もいない。奈帆のようにマスクをしている人も多い。今では違和感すら覚えなくなったが、東京の冬がこんなにマスクの人だらけになったのはなぜなんだろう。皆が皆、風邪をひいているわけでもないだろうに。
 私鉄ホームから急行の電車に乗った。奈帆が出かける前に言ったとおり、たしかにそれほど遠くはなかった。鈴子と奈帆が乗り込むとすぐに電車の扉が閉まり、暗いトンネルの中を進んで行く。
 渋谷から急行で二つ目の駅で降り、そこからタクシーに乗った。斎場の名前を告げると、そこに向かう人が多いのか、運転手は慣れた様子でロータリーから車を発進させる。一度甲州街道に出てから、車は左に曲がった。住宅街の細い道を入っていく。斎場が近づくにつれ喪服を着た人たちの姿が増えてくる。その誰もが早川朔に会いに行くのではないだろうかと思うと、鈴子は次第に緊張し始めた。
 五分もかからずタクシーは斎場に到着した。扇型になったエントランスで鈴子は早川朔の名前を探した。けれど、早川、という名前はそこにはない。仕方なく、自動ドアの入り口を入り、それらしい人たちを探した。いちばん奥のスペースに、五、六人の人たちが集まっている。年齢も鈴子とそれほど変わらないような気がした。近づいて一人の女性に尋ねた。
「あの、早川朔さんの」
「たぶんここだろうと思うんですけれど、喪主らしき方も見当たらなくて……」と困ったような表情で答える。まわりを見回しても見知った顔はない。たくさんの人でごった返しているんだろうと思って緊張していた気持ちから、少しずつ空気が漏れていくような気がした。もしかして自分が時間や場所を間違えたんじゃないだろうか、という疑念が浮かぶ。そのとき、鈴子の質問に答えた女性が顔を上げて、
「あ」とつぶやいた。

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